・・・ そして、その原稿を持って、中央局へ行くために、とぼとぼと駅まで来たのだった。郵便局行きは家人にたのんで、すぐ眠ってしまいたかったが、女に頼むには余りにも物騒な時間である。それに、陣痛の苦しみを味わった原稿だと思えば、片輪に出来たとはい・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った。 四 街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっていった。夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。そ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・と決意して、まず女房を一つ殴って家を飛び出し、満々たる自信を以て郷試に応じたが、如何にせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ちゃんとした服装さえしていたならば、私は主人からも多少は人格を認められ、店から追い出されるなんて恥辱は受けずにすんだのであろうに、と赤い着物を着た弁慶は夜の阿佐ヶ谷の街を猫背になって、とぼとぼと歩いた。私は今は、いいセルが一枚ほしい。何気な・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ 軽井沢の駅へおりた下り列車の乗客が、もうおおかたみんな改札口を出てしまったころに、不思議な格好をした四十前後の女が一人とぼとぼと階段をおりて来た。駅員の一人がバスケットをさげてあとからついて来る。よれよれに寝くたれた、しかも不つりあい・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・さらに老人や子供等にも一人一人丁寧に礼を云ってから、とぼとぼと片足を引きずりながら出て行くのであった。「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるが・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。 小十郎はもう熊のことばだって・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・闇の向うで涛がぼとぼと鳴るばかり鳥も啼かなきゃ洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、斯んなあんばいか。寝ろ、寝ろ。」大学士はすぐとろとろする疲れて睡れば夢も見ないいつかすっかり夜が明けて昨夜の続きの頁岩が・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ 二人は、寒い夜道を、とぼとぼと歩きながら淋しい声で辛い話をしつづけて居た。「哀れなお君を面倒見てやって下さい、 私の一生の願いやさかいな。 ほんにとっくり聞いといで下さる様にな。 貴方さえ、しっかり後楯になっとって・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫