・・・突然その部屋の壁の向こうに、――たしかに詩人のトックの家に鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。十三 僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・百姓はこの辺りをうろつく馬鹿者にイリュウシャというものがいるのをつかまえて、からかって居る。「一銭おくれ」と馬鹿は大儀そうな声でいった。「ふうむ薪でも割ってくれれば好いけれど、手前にはそれも出来まい」と憎げに百姓はいった。馬鹿は卑しい、・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
上 何心なく、背戸の小橋を、向こうの蘆へ渡りかけて、思わず足を留めた。 不図、鳥の鳴音がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。 その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまった。後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それでも自分は手探り足探りに奥まで進み入った。浮いてる物は胸にあたる、顔にさわ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 軽焼は本と南蛮渡りらしい。通称丸山軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から上方に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。けっして竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・この辺りでは、十銭のなんか、なかなか売れっこはないから。」といいました。「十銭のばかりなんですがね。そんなら、三つ四つ置いてゆきましょうか。」と、車を引いてきた若い男はいいました。「そんなら、三つばかり置いていってください。」と・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・馬はついに林や、野や、おかを越えて、海の辺りに出てしまいました。日はようやく暮れかかって、海のかなたは紅く、夕焼けがしていました。馬はじっとその方を見て、かなたの国にあこがれながらも、どうすることもできませんでした。「やってみろ! おま・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・やっと、日暮れ前に、一つの丸木橋を見いだしましたので、彼女は、喜んでその橋を渡りますと、木が朽ちていたとみえて、橋が真ん中からぽっきり二つに折れて、娘は水の中におぼれてしまいました。「死んでも、魂だけは、故郷に帰りたい。」と、死のまぎわ・・・ 小川未明 「海ぼたる」
出典:青空文庫