・・・長い煙を空へ引いた二本マストの汽船も浮かべている。翼の長い一群の鴎はちょうど猫のように啼きかわしながら、海面を斜めに飛んで行った。あの船や鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ幾重かの海苔粗朶の向うに青あおと煙っているばか・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・……しかしその若い楽手ももう今ではメエン・マストの根もとに中った砲弾のために死骸になって横になっていた。K中尉は彼の死骸を見た時、俄かに「死は人をして静かならしむ」と云う文章を思い出した。もしK中尉自身も砲弾のために咄嗟に命を失っていたとす・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸ったり、ハッチへ浪が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁じた・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・タノサエ二年ブリト申スヨウナ訳デス、昔ハ御機嫌伺イトイウ事モアリマシタガ、今デハ御気焔伺イデスカラ、蛙鳴ク小田原ッ子ノ如キハ、メッタニ都ヘハ出ラレマセヌ、コノゴロ御引越ニナリマシタソウデ、区名カラ申シマスト、アナタモヤハリ牛門ノ一傑デアラセ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・青森湾口に近づくともう前面に函館の灯が雲に映っているのが見られる。マストの上には銀河がぎらぎらと凄いように冴えて、立体的な光の帯が船をはすかいに流れている。しばらく船室に引込んでいて再び甲板へ出ると、意外にもひどい雨が右舷から面も向けられな・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・艫からメイン・マスト、舳へと一条張られたイルミネーションは遠目に細かく燦めき、海面の夜の濃さを感じさせた。 室へ帰って手帳に物を書いていたら、薄いカーテンに妙に青っぽい閃光が映り、目をあげて外を見ると、窓前のプラタナスに似た街路樹の葉へ・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
出典:青空文庫