・・・が、そこに滞在して、敵の在処を探る内に、家中の侍の家へ出入する女の針立の世間話から、兵衛は一度広島へ来て後、妹壻の知るべがある予州松山へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船の便を求めて、寛文七年の夏の最中、恙なく・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、所柄といい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中に唾を吐き捨てた。 草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべ・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅きさえ認められたが、一度胸を蔽い、手を拱けば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐ状なくじっと見据えた。「はい。」「お迎に参りました。」 駭然として、「私を。・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・人と云う人の娘は第一考えなければならない事である。一度縁を結んで再び里にかえるのは女の不幸としてこの上ない不幸である。若し夫は縁がなくて死んだあとには尼になるのがほんとうだのに「今時いくら世の中が自分勝手だと云ってもほんとうにさもしい事です・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・青森の人で、手が切れてからも、一年に一度ぐらいは出て来て、子供の食い扶持ぐらいはよこす、わ。――それが面白い子よ。五つ六つの時から踊りが上手なんで、料理屋や待合から借りに来るの。『はい、今晩は』ッて、澄ましてお客さんの座敷へはいって来て、踊・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・毎日一度大飯を喰って、日比谷の原を早足で三遍も廻れば直き肥る。それには牛肉で飯を喰うのが一番だ。肉が営養があるというわけではないので、食慾を刺戟するのは肉が一番だから、肉で喰うのが一番飯が余計喰える。」と大食と食後の早足運動を力説した。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・弾丸を込める所は、一度射撃するたびに、おもちゃのように、くるりと廻るのである。それから女に拳銃を渡して、始めての射撃をさせた。 女は主人に教えられた通りに、引金を引こうとしたが、動かない。一本の指で引けと教えられたに、内々二本の指を掛け・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・幸い、私たちは、みんなよく顔が人間に似ているばかりでなく、胴から上は人間そのままなのであるから――魚や獣物の世界でさえ、暮らされるところを思えば――人間の世界で暮らされないことはない。一度、人間が手に取り上げて育ててくれたら、きっと無慈悲に・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
出典:青空文庫