・・・飯本先生が一銭銅貨を一枚皆に見せていらっしゃいました。「これを何枚呑むとお腹の痛みがなおりますか」 とお聞きになりました。「一枚呑むとなおります」 とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原です。先生が頭を振られました。「二枚です・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・吉や、七と、一銭こを遣ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物だのな、飴だのな、いろんなものを買って来るんだ。」 女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは侘しくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお定りの俗に称うる坊さん花、薊の軟いような樺紫の小鶏頭を、一束にして添えたのと、ちょっと色紙の二本たばねの線香、一銭蝋燭を添えて持った、片手を伸べて、「・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・二人は起ちさまに同じように帽子をほうりつけて、「おばあさん、一銭おくれ」「おばあさん、おれにも」 二人は肩をおばあさんにこすりつけてせがむのである。「さあ、おじさんが今日はお菓子を買ってやるから、二人で買ってきてくれ、お前ら・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・昨夜は夜通し歩いて、今朝町の入口で蒸芋を一銭がとこ求めて、それでとにかく朝は凌いだ。握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二銭銅貨一枚しか残っていない。 私はそこの海岸通りへ出た。海から細く入江になっていて、伝馬や艀・・・ 小栗風葉 「世間師」
その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・が、そこは俺の寝床だ、借りたけりゃ一晩五円払えと、土蜘蛛のようなカサカサに乾いた手を出した。が、一銭もない。諦めて元のコンクリートの上へ戻ったが、骨が千切れそうに寒くて、おまけにペコペコだ。思い切って靴を脱ぎ、片手にぶら下げて、地下道の旅行・・・ 織田作之助 「世相」
・・・路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっし・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・家には一銭の現金もない筈だ。いろんな払いも滞っている。だから、珈琲どころではないのだ。おまけに、それだけではない。顔を見ているだけでも辛い松本と、どうして一緒に行けようか。 渋っているのを見て、「ねえ、お行きやすな」 雪の降る道・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・私はただ自分の菲才を知っているから、人よりはすくなく寝て、そして人よりは多くの金を作品のために使い、作品がかせぎ出した金は一銭も残そうとしなかっただけだ。私は新円と旧円のきりかえの時、二百円しか金がなかった。今でもそうだ。印税がはいってもす・・・ 織田作之助 「私の文学」
出典:青空文庫