・・・求むる有るものは弱し、恐るるに足らず、求むる無き者は強し、之を如何ともする能わず、である。不可解は恐怖になり、恐怖は遁逃を思わしめるに至った。で、何も責め立てられるでも無く、強請されるでも無いが、此男の前に居るに堪え無くなって、退こうとした・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・私は科学者ですから、不可解なもの、わからないものには惹かれるの。それを知り極めないと死んでしまうような心細さを覚えます。だから私はあなたに惹かれた。私には芸術がわからない。私には芸術家がわからない。何かあると思っていたの。あなたを愛していた・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・どのような悪罵を父から受けても、どのような哀訴を母から受けても、私はただ不可解な微笑でもって応ずるだけなのである。針の筵に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。 ことしの夏も、同じこ・・・ 太宰治 「玩具」
・・・実にそれは不可解な譬えであった。或る参謀将校は、この度のわが作戦は、敵の意表の外に出ず、と語った。それがそのまま新聞に出た。参謀も新聞社も、ユウモアのつもりではなかったようだ。大まじめであった。意表の外に出たなら、ころげ落ちるより他はあるま・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・は、その内容の物語とおなじく悲劇的な結末を告げたけれど、彼の心のなかに巣くっている野性の鶴は、それでも、なまなまと翼をのばし、芸術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託ったり、その荒涼の現実のなかで思うさま懊悩呻吟することを覚えたわけである。・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・実に不可解な現象と言わなければなるまい。 それはとにかく、実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの災害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったと・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・起らぬようなタービンの故障が舶用タービンでしばしば起るのはタービン・ディスクの廻転に船の動揺が作用するためのジャイロスコピック・アクションに起因する盤の振動によるものであろうということに着目して、この不可解の問題を解決した。これらと聯関して・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・一度気がついてみると、どうしてこんな明白なものが、今まで見えないでいたか、ほとほと不可解に思われるほどにそれほどに明瞭に見えるのである。そうなると、今度は、別の目的でニコルをのぞく時にでも、これがあまりによく見え過ぎて目的とする他の光象を観・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・時勢の変転して行く不可解の力は、天変地妖の力にも優っている。仏教の形式と、仏僧の生活とは既に変じて、芭蕉やハアン等が仏寺の鐘を聴いた時の如くではない。僧が夜半に起きて鐘をつく習慣さえ、いつまで昔のままにつづくものであろう。 たまたま鐘の・・・ 永井荷風 「鐘の声」
出典:青空文庫