・・・ 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造って行くとか聞く、海豚の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並んで、動くともなしに、見てい・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・手引をも伴れざる七十八歳の盲の翁は、親不知の沖を越ゆべき船に乗りたるなり。衆人はその無法なるに愕けり。 渠は手も足も肉落ちて、赭黒き皮のみぞ骸骨を裹みたるたる空に覆れたる万象はことごとく愁いを含みて、海辺の砂山に著るき一点の紅は、早くも・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・伏木から汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川、関、親不知、五智を通って、直江津へ出るのであります。 小宮山はその日、富山を朝立、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条海に・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ それから、四五日も看病してやったろうか、いよいよ宿や医者への支払いにさし迫られたので、たまりかねて婆さんを背負って、綱不知から田辺へわたり、そこから船で大阪へ舞い戻るまで、随分おれは情けない目を見た。みなお前のせいだ。 ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・が執こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識、もしやという期待で白い人影をそ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そんなことを不知不識の間に思っていましたので、それは私にとって非常に怖ろしい瞬間でした。 月光がその人の高い鼻を滑りました。私はその人の深い瞳を見ました。と、その顔は、なにか極まり悪気な貌に変わってゆきました。「なんでもないんです」・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ そんな風景のうえを遊んでいた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲が絶えず湧いて来るのを見たとき、不知不識そのなかへ吸い込まれて行った。湧き出て来る雲は見る見る日に輝いた巨大な姿を空のなかへ拡げるのであっ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・そんなことから不知不識に自分を不快にする敵を作っていた訳です。「あれをやろう」と思うと私は直ぐその曲目を車の響き、街の響きの中に発見するようになりました。然し悪く疲れているときなどは、それが正確な音程で聞えない。――それはいいのです。困るの・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ そしてそこまでが吉田が最近までに聞いていた娘の消息だったのだが、吉田はそんなことをみな思い出しながら、その娘の死んでいった淋しい気持などを思い遣っているうちに、不知不識の間にすっかり自分の気持が便りない変な気持になってしまっているのを・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識その灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこに滲み込んだ不思議な影の痕を撫でるのであった。彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。 展望の北隅を支えている樫・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫