・・・などと言っているのがやはり子供らしい世辞のように聞こえた。遠慮深い小さな声で言っているのであったがさすがにきのうの大宮の車夫とはちがって、絵の中の物体を指摘したりしないで「色」を言ったりするところがそれだけ新しい時代の子供であるのかもしれな・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・今の世の中にはあのようなものが芸術家を以て目せられるのも自然の趨勢であると思ったので、面晤する場合には世辞の一ツも言える位にはなっている。活動写真に関係する男女の芸人に対しても今日の僕はさして嫌悪の情を催さず儼然として局外中立の態度を保つこ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・人にお世辞を使えばと云い変えても差支ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活を・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・文学者だから御世辞を使うとすると、ほかの諸君にすまないけれども、実を云えば長谷川君と余の挨拶が、ああ単簡至極に片づこうとは思わなかった。これらは皆予想外である。 この席上で余は長谷川君と話す機会を得なかった。ただ黙って君の話しを聞いてい・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・もっともこの亭主は上さんよりも年は二つ三つ若くて、上さんよりも奇麗で、上さんよりもお世辞が善い。それで夫婦中は非常に善く調和して居るから不思議だ。今その上さんが熊手持って忙しそうに帰って行くのは内に居る子供が酉の市のお土産でも待って居るのか・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・二疋はやっと手をはなして、しきりに両方からお世辞を云いました。「君、あんまり力を落さない方がいいよ。靴なんかもうあったってないったって、お嫁さんは来るんだから。」「もう時間だろう。帰ろう。帰って待ってようか。ね。君。」 カン蛙は・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ よりどこのない空世辞を並べる人とは違う、 先代からの人を見て私にはよう分っとる。「そいでもね、時には嘘も方便ですよ。ね、世の中を正直一方に通したら十日立たないうちに乞食になってしまう時なんですよ。貴方みたいな人の好い事ばかり云・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・しかしF君が現に一銭の貯もなくて、私をたよって来たとすると、前に私を讃めたのが、買被りでなくて、世辞ではあるまいか、阿諛ではあるまいかと疑われる。修行しようと云う望に、寄食しようと云う望が附帯しているとすると、F君の私を目ざして来た動機がだ・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・「して見ると、あなたの御贔屓のエルリングは、余りお世辞はないと見えますね。」「それはそうでございます。お世辞なんぞはございません。」こう云っておばさんは笑った。 己にはこの男が段々面白くなって来た。 その晩十時過ぎに、もう内・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・お世辞のよいサラ・ベルナアルでさえあのひとは天才ではないと批評した。イギリスにおける第一印象は、激烈なる感動にもかかわらず、大芸術をもって目せられなかった。九三年正月初めてニューヨークに現われた時には、ヒュネカアの語を藉れば She att・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫