・・・彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子がなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘ぎながら、「身ども今生の思い出には、兵衛の容態が承りとうござる。兵衛はまだ存命で・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 怪しき臭気、得ならぬものを蔽うた、藁も蓆も、早や路傍に露骨ながら、そこには菫の濃いのが咲いて、淡いのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。 馬の沓形の畠やや中窪なのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔に敷いている。……真向うは、この辺・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ただ面を打って巴卍に打ち乱れる紛泪の中に、かの薙刀の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。…… 我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮大紅蓮の土壇とも、・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 私がのっそりと突立った裾へ、女の脊筋が絡ったようになって、右に左に、肩を曲ると、居勝手が悪く、白い指がちらちら乱れる。「恐縮です、何ともどうも。」「こう三人と言うもの附着いたのでは、第一私がこの肥体じゃ。お暑さが堪らんわい。衣・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・手にすることがなくなって、父も母も心の思いはいよいよ乱れるのである。 わが子の寝顔につくづく見いっていると、自分はどうしてもこの子が呼吸してるように思われてならない。胸に覆うてある単物のある点がいくらか動いておって、それが呼吸のために動・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れるほどになったので事をへだてぬ夫婦の間の事だからおいさめになると旦那も今までの事はほんとうに悪かったとさとってそれからはもう心を堅くおきめになったので小吟は奥様を大変にうらんで或る夜、旦那が・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」 かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられん・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ふたりで毎晩一升以上も呑むようでしたが、どちらも酒に強いので、座の乱れるようなことは、いちどもありませんでした。三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・私は、いくら酒を飲んでも、乱れるのは大きらいのたちですから、その悪口も笑って聞き流していましたが、家へ帰って、おそい夕ごはんを食べながら、あまり口惜しくて、ぐしゃと嗚咽が出て、とまらなくなり、お茶碗も箸も、手放して、おいおい男泣きに泣いてし・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・これは一つには古来の伝統による雪月花の組み合わせにもよる事であろうが、しかし月花の定座に雪を加えてはたしかに多すぎてかえって統率が乱れる。しかしいずれか一つではまたあまりに単調になる。だいたいにおいて春の花のほがらかさと、秋の月の清らかさと・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫