・・・彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的の演奏が出来るらしい。 それから、子供の時に唱歌をやっ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店な・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・二人の後には物色する遑なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人前に、ずらりと並ぶ、数は凡てにて十二人。何事かなくては叶わぬ。 モードレッドは、王に向って会釈せる頭を擡げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・お前は一人前の大人だ。な、おまけに高利で貸した血の出るような金で、食い肥った立派な人だ。こんな赤ん坊を引裂こうが、ひねりつぶそうが、叩き殺そうが、そんなこたあ、お前には造作なくできるこった。お前には権力ってものがあるんだ。搾取機関と補助機関・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・第三に子供を養育して一人前の男女となし、二代目の世の中にては、その子の父母となるに差支なきように仕込むことなり。第四に人々相集まりて一国一社会を成し、互いに公利を謀り共益を起こし、力の及ぶだけを尽してその社会の安全幸福を求むること。この四ヶ・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・四十近くでは若旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、そ・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・ 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田さ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 十文字女史によって子供たちといわれている娘も、女学校の四五年とあれば、もう女工としては十分に一人前である。毎日の二時間で、若い娘たちはどの位の口金仕上げをするのであろうか。賃銀はいくらなのだろうか。それらについては語られていない。ただ・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・は受け取る場所が違うのに、厨子王は姉のと自分のともらおうとするので、一度は叱られたが、あすからはめいめいがもらいに来ると誓って、ようようかれいけのほかに、面桶に入れたかたかゆと、木の椀に入れた湯との二人前をも受け取った。は塩を入れて炊いであ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・これまで人前で演説などをしたことのない父が、街頭で宣伝をやると言いだしたのはよほど気持ちが緊張していることを思わせる。ところで父が宣伝しようとするのは何であろうか。これは小生にはすぐに解った。父はただいわゆる過激思想だけを恐れているのではな・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫