・・・髪の毛の焦げるような臭と、今一つ何だか分からない臭とがする。体が顫え罷んだ。「待て。」 白い姿は動かない。黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体の上にかぶさるようになって何やらする。「おしまいだな」とフレンチは思った。そして熱・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・かの女は今一つ持っていた林檎を出した。「………」僕は黙ってそれを奪い取ってから、つかつかと家にはいった。 一七 その後、吉弥に会うたびごとに、おこって見たり、冷かして見たり、笑って見たり、可愛がって見たり――こッ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 今一つ言うべきは、現実という事である。此れも極めて物質的、具体的のものをのみ云うのは褊狭ではあるまいか、吾人は何程立派な形体があればとて此れを取扱うに生命なき場合は、決してそれを現実とは思わないのである。此れに反し、縦令形体はなくとも・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・何故かと云うに一般民衆にとって大学教育を受くると云うことは経済的に殆んど不可能の事であるし、今一つは大学教授と云うような人は自分の専門的の学科には忠実であろうが、学生の人格の養成や、或はどのような人間を作ろうかなど云うような事に就ては欠陥が・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・これはその今一つの方法ですよ。でも、ジュール・ラフォルグの詩にあるように哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。 私も何遍やってもおっこちるんですよ」 そう言ってK君は笑いました。 その奇異な初対面の夜から、・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 今一つは、次郎の事だ。私は太郎から聞いて来た返事を次郎に伝えて、いよいよ郷里のほうへ出発するように、そのしたくに取り掛からせることにした。「次郎ちゃん、番町の先生のところへも暇乞いに行って来るがいいぜ。」「そうだよ。」 私・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物奴がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・この分らない問題を解く試みの方法として、私は今一つの実験を行ってみようとしている。それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが蚯蚓や蛆虫であろうとも一切のものを「現在の鍋」に打ち込んで煮詰めてみようと・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ それに今一つの理由としては、辰之助の妹婿の山根がついこのごろまでおひろと深い間であったことで、恋女房であった彼の結婚生活が幸福であった一面に、山根はよくおひろをつれて温泉へ行ったり、おひろの家で流連したりして、実家の母をいらいらさせた・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れようとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知ら・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫