・・・弾丸は三歩ほど前の地面に中って、弾かれて、今度は一つの窓に中った。窓が、がらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、唯さえ暗い中庭を、一刹那の間、一層暗くした。・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・そして今度はその最後の一輌にようやく追い着いた。 米の叺が山のように積んである。支那人の爺が振り向いた。丸顔の厭な顔だ。有無をいわせずその車に飛び乗った。そして叺と叺との間に身を横たえた。支那人はしかたがないというふうでウオーウオーと馬・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移転した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。 彼の家族に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「神戸も初め?」私は雪江にきいた。「そうですがな」雪江は暗い目をした。 私は女は誰もそうだという気がした。東京に子供たちを見ている妻も、やっぱりそうであった。「今度来るとき、おばさんを連れておいんなはれ。おばさんが来られんよ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見る暇もなく陥穽に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企て・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 赤白マダラの犬は、主人の呼声を知らぬふりで飛び跳ねながら、並樹土堤から、今度は一散に麦畑の中へ飛び込んで来た。麦の芽は犬に踏みにじられて無惨に、おしひしゃがれ、首を折って跳ねちらかされた。 そんとき、善ニョムさんは、気がついてびっ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋の上・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・しかし今度こそはと思いながら、無精な私はいつも奮発できなかった。その中、同君の逝去せられたのを聞いて残念に堪えない。新聞によれば、何千人かの会葬者があったらしい。同君は何処かにえらい所があったのだと思う。 右のような訳で、高校時代には、・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・私はこう怒鳴ると共に、今度は固めた拳骨で体ごと奴の鼻っ柱を下から上へ向って、小突き上げた。私は同時に頭をやられたが、然し今度は私の襲撃が成功した。相手は鼻血をタラタラ垂らしてそこへうずくまってしまった。 私は洗ったように汗まみれになった・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫