・・・ と主人は此方に手を伸ばすと、見得もなく、婦人は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書の用は直ぐに済んだ。 机の上に差置いて、「ほんとに御苦労様でした。」「・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上っては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上っては、また空に手を伸ばす。―― 紫玉はズッと寄った。稚児はもう涼傘の陰に入ったのである。「ちょっと……何をしているの。」「水が欲しいの。」・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・この場合に臨んではもう五分間と起きるを延ばすわけにゆかぬ。省作もそろそろ起きねばならんでなお夜具の中でもさくさしている。すぐ起きる了簡ではあるが、なかなかすぐとは起きられない。肩が痛む腰が痛む、手の節足の節共にきやきやして痛い。どうもえらい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ しかし中学生の分際で髪の毛を伸ばすのは、口髭を生やすよりも困難であった。それ故私は高等学校にはいってから伸ばそうという計画を樹て、学校もなるべく頭髪の型に関する自由を許してくれそうな学校を選んだ。倖い私のはいった学校は自由を校風として・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ と、手を伸ばすと、武田さんは、「おっとおっと……」 これ取られてなるものかと、頓狂な声を出して、その時計を胸に抱くようにした。「――どうもお眼も早いが、手も早い。千円でも譲らんよ。エヘヘ……」 胸に当てて離さなかった。・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・みを運びながら、洋服で腕組みしたり、頭を垂れたり、あるいは薄荷パイプを啣えたりして、熱い砂を踏んで行く人の群を眺めると、丁度この濠端に、同じような高さに揃えられて、枝も葉も切り捨てられて、各自の特色を延ばすことも出来ない多くの柳を見るような・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・手を延ばすなら、藤さんの膝にかろうじて届くのである。水は薄黒く濁っていれど、藤さんの翳す袂の色を宿している。自分の姿は黒く写って、松の幹の影に切られる。「また浮きますよ」と藤さんがいう。指すところをじっと見守っていると、底の水苔を味噌汁・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・石ころだらけで、私はこの白い脚を伸ばす事が出来ませぬ。なんだか、毛むくじゃらの脚になりました。ごぼうの振りをしていましょう。私は、素直に、あきらめているの。」 棉の苗。「私は、今は、こんなに小さくても、やがて一枚の座蒲団にな・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・これらすべての事を思ったり見たり考えたりすると、自分の個性を伸ばすどころの騒ぎではない。まあ、まあ目立たずに、普通の多くの人たちの通る路をだまって進んで行くのが、一ばん利巧なのでしょうくらいに思わずにはいられない。少数者への教育を、全般へ施・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・いやらしいくらいに、くどくどと語り、私が折角いい案配に忘れていたあの綴方の事まで持ち出して、全く惜しい才能でした、あの頃は僕も、児童の綴方に就いては、あまり関心を持っていなかったし、綴方に依って童心を伸ばすという教育法も存じませんでしたが、・・・ 太宰治 「千代女」
出典:青空文庫