・・・ と調子を低めて、ずっと摺寄り、「こう言うとな、大概生意気な奴は、名を聞くんなら、自分から名告れと、手数を掛けるのがお極りだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いか。その筋の刑事だ。分ったか。」・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 媼さんは心もとなげに眺めていたが、一段声を低めて、「これはね、ここだけの話ですが――もっとも、お光さんは何もかも知っておいでなさることだから、お談しせずともだけれど、あれも来年はもう二十でございますからね。それに御存じの通りの為体で、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・鞭は持たず、伏せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱっと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと眼を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いている先頭の・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・と、一段声を低めて「あの破火鉢に佐倉が二片ちゃんと埋って灰が被けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早必定そうだと決定て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄をかけて此方で験めした上と考がえましたから今日行って試たの・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・しかしそれだからといって、社会改革ができるまでは、恋愛の理想をまげたり、低めたりしてもいいということはない。困難な現実の中でどこまで精神の高貴と恋愛の純情とをつらぬきうるかというところに、人間としての戦い、生命の宝を大事にするための課題があ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・と、彼は、声を低めて、しかも力を入れて云った。「そうかいな。」「誰れぞに問われたら、市へ奉公にやったと云うとくがえいぜ。」「はあ。」「ようく、気をつけにゃならんぜ……」と叔父は念をおした。そして、立って豚小屋を見に行った。・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ったにもかゝわらず、いまだ文学的批判の対象として取り上げられなかったらしいのは、従来の文学批評家の文人気質によるというよりは、愛国的熱情があまって真実を追求しようとする意力の欠如が、文学としての価値を低めているがためだろう。 よき文学は・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・と言いかけて帳場のほうを、ひょいと振りむいて覗き、それから声を低めて、「あのう、だんなのお知合いの人で、私みたいのを、もらって下さるようなかた無いでしょうか。」 私は女中さんの顔を見直した。女中さんは、にこりともせず、やはり、まじめな顔・・・ 太宰治 「鴎」
・・・薔薇をこれだけ、ちょっと植えさせて下さいましい、とやや声を低めて一生懸命である。私には、それが嘘であることがわかっていた。この辺の畑全部は、私の家の、おおやさんの持物なのである。私は、家を借りるとき、おおやさんから聞いて、ちゃんと知っていた・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・等によって大衆文学の領域に進み出し、テーマの常識性、合理性の日本らしく低められた水準、要素そのものによって成功をかち得て今日に到っている現実に雄弁に語りつくされていると思われるのである。 菊池寛は「義民甚兵衛」の生と死とを、あくまで人間・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
出典:青空文庫