・・・つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分の身が恥じられ、また悲しく思われた。偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・仏教では他生の縁というような考え方をするが、かりそめに対すれば、こうしたこともただかりそめの偶然にすぎないけれども、深く思えばいろいろ意味のあることである。結婚などというものは星の数ほどの相手の中から二人が選び出されて結び合うその契機の最大・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然に用いた語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋った。が、直にまた悲痛な顔になって堪え涙をうるませた。自分の軽視されたという・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護ろうとする心に帰って行った。 安い思いもなしに、移り行く世相・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そういう男等が偶然この土地へ来たり、また知り人を尋ねて来たのである。それがみんな清い空気と河の広い見晴しとに、不思議に引寄せられているのである。文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ それゆえ、これから私が、この選集の全巻の解説をするに当っても、その個々の作品にまつわる私自身の追憶、或いは、井伏さんがその作品を製作していらっしゃるところに偶然私がお伺いして、その折の井伏さんの情景など記すにとどめるつもりであって、そ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋偶然ではない。 上野の始て公園地となされたのは看雨隠士なる人の著した東京地理沿革誌に従えば明治六年某月である。明治十年に至って始て内国勧業博覧会がこの公園に開催せられた。当時上野・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫