・・・自身にも凶事が起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯一の、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。 遠くで稲妻のする空の・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・俺が覚えてからも、止むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥はなかった。――それがその時、汝の手で開いたのか。侍女 ええ、錠の鍵は、がっちりささっておりましたけれど・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・その重苦しい何かしら凶事を予感させるような単調な音も、夕凪の夜の詩には割愛し難い象徴的景物である。 東京という土地には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風は実に帝都随一の名物であると思われるのに、それ・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見われる。梭は再び動き出す。 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。 うつせみの世を、 うつつに住めば、 住みうからまし、 むかし・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫