・・・だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗を大切にする、飲酒家は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花の模様で、焼も余りよ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ていた筈で、けれども、それは大谷さんだけでなく、まだその頃は東京でも防空服装で身をかためて歩いている人は少く、たいてい普通の服装でのんきに外出できた頃でしたので、私どもも、その時の大谷さんの身なりを、別段だらし無いとも何とも感じませんでした・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ求めた。黒眼がち、まじめそうな細面の女店員が、ちら・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・万古不易の豊葦原瑞穂国、かの高志の八岐の遠呂智、または稲羽の兎の皮を剥ぎし和邇なるもの、すべてこの山椒魚ではなかったかと私は思惟つかまつるのでありますが、反対の意見をお持ちの学者もあるかも知れません。別段、こだわるわけではありませんが、作州・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・けれどそれが別段苦しくも悲しくも感じない。二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、ほかに物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱れたいと思った。 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それ自身に別段悪い意味はないはずであるが、この定義の中にはすでにいろいろな危険を包んでいる。浅薄、軽率、不正確、無責任というようなものがおのずから付きまといやすい。それからまた読者の一時的の興味のために、すべての永久的なものが犠牲にされやす・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・それで結局は、何も別段得る物はなかったのであるが、でもせっかく考えた事だからと思って、ノートの端に書き止めておいた。その中のおもな事を改めてここに清書しておきたいと思う。 宣伝という文字自身には元来別にそう押しつけがましい意味はなく・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・それは別段に珍しい考えでもなかったが、その時にはそれが唯一の真理であるように思われた。――もう昆虫の生命などは方則の前の「物質」に過ぎなくなった。私と私の鋏はその方則であり征服者であり同時に神様であった。私はわれわれ人間の頭上に恐ろしい大き・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・婆さんは人が聞こうが聞くまいが口上だけは必ず述べますという風で別段厭きた景色もなく怠る様子もなく何年何月何日をやっている。 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切ら・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・があれは生活上別段必要のある場所にある訳でもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物数奇である。ただ上ったり下ったりするだけである。疑もなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計向とは関係の少ないものです・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫