・・・微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱帯の裂けたのを、縄に捩った一重まわし、小生意気に尻下り。 これが親仁は念仏爺・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。 そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 斜違にこれを視めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、総髪の大きな頭に、黒の中山高を堅く嵌めた、色の赤い、額に畝々と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、大い眼鏡で、胡麻塩髯を貯えた、頤の尖った、背のずんぐりと高いのが、絣・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・顔の厭に平べッたい、前歯の二、三本欠けた、ちょっと見ても、愛相が尽きる子だ。菊子が青森の人に生んで、妹にしてあると言ったのは、すなわち、これらしい。話しばかりに聴いて想像していたのと違って、僕が最初からこの子を見ていたなら、ひょッとすると、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 気がつくと、前歯が一枚抜けているせいか、早口になると彼の言葉はひどく湿り気を帯びた。「…………」 私は言うべきことがなかった。すると、もう男はまるで喧嘩腰になった。「あんたも迷信や思いはりまっか、そら、そうでっしゃろ。なん・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・笑うと、前歯が二本欠けているのが見える。若い身空でありながらわざと入れようとしないのは、むろん不精からだろうが、それがかえって油断のならない感じかも知れない。精悍な面魂に欠けた前歯――これがふと曲物のようなのだ。いずれにしても一風変っている・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・菊子さんもご存じでしょうが、私の前歯が一枚だけ義歯で取りはずし出来るので、私は電車の中でそれをそっと取りはずして、わざと醜い顔に作りました。戸田さんは、たしか歯がぼろぼろに欠けている筈ですから、戸田さんに恥をかかせないように、安心させるよう・・・ 太宰治 「恥」
・・・ とうとう前歯までがむしばまれ始めた。上のまん中の二枚の歯の接触点から始まった腐蝕がだんだんに両方に広がって行って歯の根もとと先端との間の機械的結合を弱めた。そうして、いつかどこかでごちそうになったときに出された吸い物の椎茸をかみ切った・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・自転車の稽古をして、少し乗れるようになってからいっしょに市外へ遠乗りに行って、帰りに亮が落ちて前歯を一本折った事もあった。 そのころの亮の写生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・とウィリアムは口の中で言いながら前歯で唇を噛む。折柄戦の声は夜鴉の城を撼がして、淋しき海の上に響く。 城壁の高さは四丈、丸櫓の高さはこれを倍して、所々に壁を突き抜いて立つ。天の柱が落ちてその真中に刺された如く見ゆるは本丸であろう。高さ十・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫