・・・折角、これまで金を入れたのだからどうしても生命を取り止めたい。言葉に出してこそ云わなかったが、彼女にも為吉にもそういう意識はたしかにあった。彼等は、どこにまでも息子のために骨身を惜まなかった。村の医者だけでは不安で物足りなくって、町からも医・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・もなんらの事件を示さず、ただこの海産動物につながる連想の活動を刺激することによって「憧憬のかすみの中に浮揺する風景や、痛ましく取り止めのつかない、いろいろのエロチックな幻影や、片影しか認められないさまざまの形態の珍しい万華鏡の戯れやが、不合・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・という文字について取り止めないいろいろの事を考えてみた。しかしその時はそれきりで、何を考えたという事さえ忘れてしまっていたが、その後二三日たったある日の夕方、駿河台下まで散歩していた時に、とある屋根の上に明滅している仁丹の広告を見るとまた突・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・惜しい事には歳が歳であったから見もし聞きもした場所も事実も、二昔も程遠き今日からふりかえって考えてみると夢のような取り止めも付かぬ切々が、かすかな記憶の糸につながれて、廻り燈籠のように出て来るばかりで。こんな風であるから、これも自分には覚え・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・ ラジオの放送を聞きながらこんな取り止めもないことを考えていたのであった。 相撲と自分との交渉は洗いざらい考えてみてもまずあらかたこれだけのものに過ぎない。相撲好きの人から見たら実にあきれ返るであろうと思われるほどに相撲の世界と自分・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫の海におぼれんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを・・・ 寺田寅彦 「相対性原理側面観」
・・・意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・ こんな取り止めも付かぬ事を色々な人に話してみた。 二、三の先輩は怒ったような顔をし、あるいは苦笑して何とも云わなかった。B君は黙って聞いてしまってから物価騰貴と月給の話をした。C君は日露戦争と欧洲大戦を引合に出して、緊張と寛舒・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・それで自分のここに書いたこの取り止めもない追憶が、さもさも自分だけで先生を独占していたかのように読者に見えるとすれば、それはおそらく他の多くの門下生の各自の偽らぬ心持ちを代表するものとして了解しゆるしてもらわれるべきだと思う。そういう同門下・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・廻す拍子に一度危なく取落そうとしてやっと取り止めた様子は滑稽であった。蜂はやがてこの団子をくわえて飛び出そうとしたが、どうしたのかもう一遍他の枝に下りた。人間ならばざっと荷物をこしらえて試みにちょっとさげてみたというような体裁であった。そし・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
出典:青空文庫