・・・と叫ぶものもある。 不時の停車を幸いに、後れ走せにかけつけた二、三人が、あわてて乗込んだ。その最後の一人は、一時に車中の目を引いたほどの美人で、赤いてがらをかけた年は二十二、三の丸髷である。オリブ色の吾妻コオトの袂のふりから二枚重の紅裏・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・と幽に叫ぶ。王は迷う。肩に纏わる緋の衣の裏を半ば返して、右手の掌を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。 この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が石せきちょうに響を反して、窈然と遠く鳴る木枯の如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。土にはまるでそれが腐屍ででもあるように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。 彼は、口から頬へかけて泥だらけになって昏々と死のように・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ダーダーダーダーダースコダーダー 強い老人らしい声が剣舞の囃しを叫ぶのにびっくりして富沢は目をさました。台所の方で誰か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。 ランプがいつか心をすっかり細められて障子・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・三人ともだまったまんま木の間を行ったり来たりするうちに一番川に近い方に居る第二の精霊がとっぴょうしもない調子で叫ぶ。第二の精霊 来る! 来る! ソラ、あすこに、私達の――するどく叫んであとはポーッとした目つきで向うを見る・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・喚ぶ声、叫ぶ声、軋る声、相応じて熱閙をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる笑声がおりおり高く起こるかと思うとおりおりまた、とある家の垣根に固く繋いである牝牛の長く呼ばわる声が別段に高く聞こえる。廐の臭いや牛乳の臭いや・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・玉や鍵やと叫ぶ時、群集が項を反らして、群集の上の花火を見る。 酉の下刻と思われる頃であった。文吉が背後から九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿って、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形木綿の単物に、古びた花色縞・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ツァウォツキイの声は叫ぶようであった。 相手は聴かなかった。雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・と秋三は叫ぶと、奥庭から柄杓を持って走って来た。「うちへ置いといてやってもええわして。」とお留は云った。「あかん。」「そんなこと云うてたら、仕方あらへんやないか。」「あかん、あかん。」「おかしい子やな。あんな死にかけてる・・・ 横光利一 「南北」
・・・ヴイナスだ、プラキシテレスのヴイナスだ、と人々は有頂天になって叫ぶ。やがてヴイナスは徐々に、地の底から美しい体を現わして来る。 ある者は恐怖のために逃げ去ろうとする衝動を感じた。しかし奇妙な歓びが彼の全身を捕えて動かさせなかった。それが・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫