・・・と仰臥した胸の上で合掌しました。其儘暫く瞑目していましたが、さすが眼の内に涙が見えました。それを見ると私は「ああ、可愛想な事を言うた」と思いました。病人は「お母さん、もう何も苦しい事は有りません。この通り平気です。然し、私は恥かしい事を言い・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・食卓でいちいち合掌させて食事をさせるというようなのは私は好まない。「おいたはおよし」と母親が叱っても、茶碗を引っくり返すくらいなところもないと母のなつかしみはつくまい。人間としての本質の要所要所で厳格でありたい。 母としての女性の使命は・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ とみは、涙を浮べ、小さく弟に合掌した。 男爵は、何も知らず、おそろしくいきごんで家へかえり、さて、別にすることもなく、思案の果、家の玄関へ、忙中謝客の貼紙をした。人生の出発は、つねにあまい。まず試みよ。破局の次にも、春は来る。桜の・・・ 太宰治 「花燭」
・・・諷刺文芸編輯部、五郎、合掌。」 月日。「お手紙さしあげます。べつに申しあげることもないのでペンもしぶりますが読んでいただければ、うれしいと思います。自分勝手なことで大へんはずかしく思いますがおゆるしください。御記憶がうすくなって・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そうして、路傍で、冗談でなく合掌した。家へ帰ったら、あの子の眼が、あいていますようにと祈った。家へ帰ると子供の無心の歌声が聞える。ああ、よかった、眼があいたかと部屋に飛び込んでみると、子供は薄暗い部屋のまんなかにしょんぼり立っていて、うつむ・・・ 太宰治 「薄明」
・・・末弟は、長女に向って合掌した。 その四 三日目。 元日に、次男は郊外の私の家に遊びに来て、近代の日本の小説を片っ端からこきおろし、ひとりで興奮して、日の暮れる頃、「こりゃ、いけない。熱が出たようだ。」と呟き、・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
木枯らしの夜おそく神保町を歩いていたら、版画と額縁を並べた露店の片すみに立てかけた一枚の彩色石版が目についた。青衣の西洋少女が合掌して上目に聖母像を見守る半身像である。これを見ると同時にある古いなつかしい記憶が一時に火をつ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・とある杉垣の内を覗けば立ち並ぶ墓碑苔黒き中にまだ生々しき土饅頭一つ、その前にぬかずきて合掌せるは二十前後の女三人と稚き女の子一人、いずれも身なり賤しからぬに白粉気なき耳の根色白し。墓前花堆うして香煙空しく迷う塔婆の影、木の間もる日光をあびて・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌しました。 それは太陽でした。厳かにそのあやしい円い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。光は針や束になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。 天・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・私はほんとうに名残り惜しく思い、まっすぐに立って合掌して申しました。「尊いお物語をありがとうございました。まことにお互い、ちょっと沙漠のへりの泉で、お眼にかかって、ただ一時を、一緒に過ごしただけではございますが、これもかりそめのことでは・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
出典:青空文庫