・・・お爺さんは一代のうちに蔵をいくつも建てたような手堅い商人であったが、総領の子息にはいちばん重きを置いたと見えて、長いことかかって自分で経営した網問屋から、店の品物から、取引先の得意までつけてそっくり子息にくれた。ところが子息は、お爺さんから・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・つるの亭主は、甲州の甲斐絹問屋の番頭で、いちど妻に死なれ、子供もなかったし、そのまま、かなりのとしまで独身でいて、年に一度ずつ、私のふるさとのほうへ商用で出張して来て、そのうちに、世話する人があって、つるを娶った。そのような事実も、そのとき・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・私の家は、日本橋呉服問屋であって、いまとちがって、その頃はまだ、よほどの財産があったし、私はまたひとり息子でもあり、一高の文科へもかなりの成績ではいったのだし、金についてのわがままも、おなじ年ごろの学生よりは、ずっと自由がきいていた。私は、・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・「青物の問屋。なかなか堅いんですの。旧は夜店で果物なんか売っていたんですけれど、今じゃどうして問屋さんのぱりぱりです。倶楽部へも入って、骨董なんかもぽつぽつ買っていますわ。それで芳ちゃんが落籍される時なんか、御母さんはああいう人ですから・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している…… これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた堀留あたりを親父橋の方へと・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 恭二は静岡の魚問屋の坊ちゃんで、倉の陰で子守相手に「塵かくし」ばかり仕て居たほど気の弱い頭の鉢の開いた様な子だったが十九の年、中学を出ると一緒に、良吉の家へ養子になった。 良吉の妹が口を利いたので、母親がほんとでありながら、愛され・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・「町ソヴェトの倉庫んなかに、元絹問屋の客間にあったっていう、でっかい絵があるぜ」「ふーむ。どんな絵だい?」「なんでも黒い髪をたらした女が踊ってるんだ、半分裸でよ。その女の前にある皿に、男の首がのっかってるんだ」「俺等そんな絵・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ 咲、自家用にのって、やすい花屋をさがして吉祥寺前の問屋とかで買って来た由。 芍薬二輪ぐらいずつ大切にいけられている、 額「これいい絵ね だれの?」「淳さんの、恐らく淳さんの一番いい絵じゃないかって 云わ・・・ 宮本百合子 「生活の様式」
・・・丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋の戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだ奴がある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫