・・・人のいい驢馬の稚気に富んだ尾籠、そしてその尾籠の犠牲になった子供の可愛い困惑。それはほんとうに可愛い困惑です。然し笑い笑いしていた私はへんに笑えなくなって来たのです。笑うべく均衡されたその情景のなかから、女の児の気持だけがにわかに押し寄せて・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・彼はそう思っていた。だがどうも事がそれに関連しているらしいので不安になった。彼は困惑した色を浮べた。彼は、もと百姓に生れついたのだが、近年百姓では食って行けなかった。以前一町ほどの小作をしていたが、それはやめて、田は地主へ返えしてしまった。・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ お里が俯向いて、困惑しながらこう云っている…… 五 清吉は胸がドキリとした。「何でもない。下らないこった! 神経衰弱だ何でもありゃしない!」 彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はな・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・博士は、もともと無頓着なお方でございましたけれども、このおびただしい汗には困惑しちゃいまして、ついに一軒のビヤホールに逃げ込むことに致しました。ビヤホールにはいって、扇風器のなまぬるい風に吹かれていたら、それでも少し、汗が収りました。ビヤホ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ぎりぎりに困惑したら、一言だけ、あなたのお指図をいただきたいと、二十年間、私は、ひそかに、頼みにして生きて来ました。少しでも、いじらしいとお思いになったら、御返事を下さい。二十年間を、決して押売りするわけではございませんが、もういまは、私の・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・成熟した女学生がふたり、傘がなくて停車場から出られず困惑の様子で、それでもくつくつ笑いながら、一坪ほどの待合室の片隅できっちり品よく抱き合っていた。もし傘が一本、そのときの私にあったならば、私は死なずにすんだのかも知れない。溺れる者のわら一・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 私の困惑は、他に在るのだ。それは、私がみじんも大家で無い、という一事である。この雑誌の、八月上旬号、九月下旬号、十月下旬号の三冊を、私は編輯者から恵送せられたのであるが、一覧するに、この雑誌の読者は、すべてこれから「文学というもの」を・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろう・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・案外、こんなところに全体主義の困惑があるのではないか。 さあ、なんと言っていいか。わからないかねえ。あれなんだがねえ。あれだよ。わからないかねえ。なんといっていいのか。ちょっと僕にも、などと、ひとりで弱っている姿を見ると、聞き手のほうで・・・ 太宰治 「多頭蛇哲学」
・・・ゃないか、勉強いたしているそうだ、酒はつまらぬと言ったってね、口髭をはやしたという話を聞いたが、嘘かい、とにかく苦心談とは、恐れいったよ、謹聴々々、などと腹の虫が一時に騒ぎ出して来る仕末なので、作者は困惑して、この作品に題して曰く「鉄面皮」・・・ 太宰治 「鉄面皮」
出典:青空文庫