・・・おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。」「どこのです。」「ここの。」「ええ。」「それとも隣室だった・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ もし梅水の出店をしたのが、近い処は、房総地方、あるいは軽井沢、日光――塩原ならばいうまでもない。地の利によらないことは、それが木曾路でも、ふとすると、こんな処で、どうした拍子、何かの縁で、おなじ人に、逢うまじきものでもない、と思ったろ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 先年塩原の山中を歩いていた時に、偶然にこの涼しさの成立条件を発見した。とその時に思ったことがある。蒸されるような暑苦しい谷間の坂道の空気の中へ、ちょうど味噌汁の中に入れた蓴菜のように、寒天の中に入れた小豆粒のように、冷たい空気の大小の・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ 一月ぐらいたって塩原へ行ったら、そこの宿屋の縁側へ出て来た猫が死んだ三毛にそっくりであるのに驚いた。だんだん見慣れるに従って頭の中の三毛の記憶の影像が変化して眼前の生きたものに吸収され同化されて行く不思議な心理過程に興味を感じた。われ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかった。『今戸心中』はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼にあった情死を材料にしたものだ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つもない、帝国文庫の『京伝傑作集』や一九の『膝栗毛』、または円朝の『牡丹燈籠』や『塩原多助』のようなものは、貸本屋の手から・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ 東京から一人新しい連れが加ったりしたので、十六日の快晴を目がけ、塩原まで遠乗りした。緩くり一時間半の行程。皆塩原の風景には好い記憶をもっていたのでわざわざ出かけたのであったが、今度は那須と比較して異った感じを受けた。箒川を見晴らせ・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・外題は、塩原多助、尾上岩藤に、小栗判官、照手の姫、どんなによかろう。見たいない。 祖母の顔を見るやいなや、婆さんは、飛び立った様にその小さい眼をかがやかしながら云う。「行ってお見ねえか?「私は、あすこまで歩くのが事でなし・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ おや塩原ですね」「はやく裏御覧なさい」 藍子は、くるりと長椅子から起きかえりながらその絵はがきの裏を見たが、「なあんだ」 ぷいと放り出し、そのまままた横になってしまった。「駄々っ子ね。折角とっといて上げたのに読んだらい・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・何某の講談は塩原多助一代記の一節で、その跡に時代な好みの紅葉狩と世話に賑やかな日本一と、ここの女中達の踊が二組あった。それから饗応があった。 三間打ち抜いて、ぎっしり客を詰め込んだ宴会も、存外静かに済んで、農商務大臣、大学総長、理科大学・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫