・・・悪の如く考えており、徒然草をさえ、余り良いものじゃない、と評したというほどだから、随分退屈な旅だったろうが、それでもまだしも仕合せな事には少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の旅中の楽にして、然として夕陽の山路や暁風の草径をあるき廻ったので・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・黒いゲートルを巻いた、ゴム足袋の看守が両手を後にまわして、その側をブラ/\しながら何か話しかけていた……。夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来てい・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるよ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。 男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。 じぶんのお家の窓からは、ランプのあ・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・またそこに死んでいるむすめをなつかしそうに打ち見やる、大きなやさしい母らしい目もありまして、その眼中にはすき通るような松やにの涙が宿って、夕日の光をうけて金剛石のようにきらきら光っていました。「そこにいるお嬢さんはねむっていらっしゃるの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・牛乳を三杯のんで、約束の午後二時はとっくに過ぎ、四時ちかくなって、その飲食店の硝子戸が夕日に薄赤く染まりかけて来たころ、がらがらがらとあの恐ろしい大音響がして、一個の男が、弾丸のように飛んで来た。「や。しっけい、しっけい。煙草あるかい?・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく彷徨い歩く。私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩いている。 二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊びをするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音、樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・家族のものが駈けつけて夕日の光に灰を掻き分けた時、仰向になった儘爛れた太十の姿を発見した。有繋に雷鳴を恐れたと見えて両手は耳を掩うて居た。屋根の裏に白い牙をむいた鎌が或は電気を誘うたのであったろうか、小屋は雷火に焼けたのである。小屋に火の附・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫