・・・「以太利亜の、以太利亜の海紫に夜明けたり」「広い海がほのぼのとあけて、……橙色の日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 私は静に立ち上った。 そして橋の手すりに肘をついて浚渫船をボンヤリ眺めた。 夜明け方の風がうすら寒く、爽かに吹いて来た。潮の匂いが清々しかった。次には、浚渫船で蒸汽を上げるのに、ウント放り込んだ石炭が、そのまま熔けたような濃い・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・やっと夜明けに近いころ、雪婆んごはも一度、南から北へまっすぐに馳せながら云いました。「さあ、もうそろそろやすんでいいよ。あたしはこれからまた海の方へ行くからね、だれもついて来ないでいいよ。ゆっくりやすんでこの次の仕度をして置いておくれ。・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・ 東の空が黄金色になり、もう夜明けに間もありません。 宮沢賢治 「双子の星」
・・・「夜明け前」が一つの記念碑的な作品であることに異議ない。七年間の労作に堪ゆる人間が、枯淡であろうとも思わないし、無計画であるとも思わない。同じ十月の『文芸』に中村光夫氏が短い藤村研究「藤村氏の文学」を書いていて、中に「氏は自己の精神・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・――原泉夫妻[自注18]は四谷の大木戸ハウスというアパートで細君はトムさん[自注19]の新協劇団第一回公演では「夜明け前」に巡礼をやり、今やっているゴーゴリの芝居では何をやっているか、旦那さんの方はきっと徹夜して小説かいてるでしょう。今夜見・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・今日「夜明け前」の後篇とロンドンの「ホワイト・フアング」の訳とドーデエの「ジャック」を入れます。「白い牙」は昔枯川の訳があったが、お読みになりましたろうか。しかし心持のよいものだからもう一度でもよいでしょう。ヴォルフの写真集はお手に入りまし・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・そののち夜明けまで何事もなかった。 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人は勝手に討ち取れという・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・また夜明け前後のあの時刻には、蚊はあまりいなかったように思う。 ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じように見られるかどうかは、私は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によって水位を何尺か下げた。前に蓮の花の咲いていた場所・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
・・・そうしてそれが追々強まって行くとともに、ちょうど夜明けのように、また新らしい転機が迫って来た。 最初の光は、自己の価値が問題になったことである。偉大なる人が何故に偉大であるかという事も追々に解って来た。いかに自分が矮小であるかということ・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫