・・・するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。 しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。 ところが又暫くす・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そして硝子窓をあけて、むっとするようにこもった宵の空気を涼しい夜気と換えた。彼はじっと坐ったまま崖の方を見ていた。崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈がそのありかを示しているに過ぎなかった。そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・非常に新鮮な感じであった。夜気はこまやかに森として、遠くごく遠く波の音もする。夜、波の音は何故あのように闇にこもるように響くのだろう。耳を澄ましていると、「御免下さい」 婆さんが襖をあけた。「何にもありませんですがお仕度が出来ま・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・赤茶色の箪笥、長火鉢、蠅入らず、部屋のあらいざらいの道具が、皆、テラテラ妙に光って、ぼろになった畳と畳との合わせ目から夜気がつめたくすべり込んで来る様だった。 火の気のない、静かな、広い畑の中にポッツリたった一軒家には、夜のあらゆる不思・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 野蛮な声の爆発が鎮ると、都おどりのある間だけ点される提灯の赤い色が夜気に冴える感じであった。 空には月があり、ゆっくり歩いていると肩のあたりがしっとり重り、薄ら寒い晩であった。彼等は帰るなり火鉢に手をかざしていると、「どう・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふれて、小さいぬかるみをこしらえている。新手な群集は子供や年寄・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出よ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ 再び森閑とした夜気。――私共は炬燵にさし向いの顔を見合わせ、微笑んだ。こちらのささやき。「地方色よ」「余り静かだからいい景物だ――でも、わるい妓だな」 程なく「ああ冷えちゃった」 立ったまま年増の女の云う声がした。・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫