・・・ 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛け・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神――はてな、老人は、――知事の怨霊ではなかったか。 そんな事まで思いました。 円髷に結って、筒袖を着た人・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・霜月でした――夜汽車はすいていますし、突伏してでもいれば、誰にも顔は見られませんの。 温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半だったんですって。――どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの真中へは入るものではないとは知っ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・行李一つと夜具だけ上野までチッキをつけて、一昨日ほとんどだしぬけに嫂さんところへ行ってすぐ夜汽車で来るつもりだったんでしょうがね、夜汽車は都合がわるいと止められたんで、一昨日の晩は嫂さんところへ泊って、昨日青森まで嫂さんに送られて一時の急行・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 上野から夜汽車に乗る私を送ってきてくれた土井は、別れる時こう言った。 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 息子は、びっくりして十一時の夜汽車であわてゝ帰って来た。 三日たって、県立中学に合格したという通知が来たが、入学させなかった。 息子は、今、醤油屋の小僧にやられている。・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ ドイツ書の棚の前で数分を費やした後にフランスの書物の所へ出た時はちょうどベルリンから夜汽車でパリへ着いたというような心持ちがする。これはおそらくただ簡単に自分だけのある経験から生じる連想のためばかりではあるまい。ドイツ書の装幀なり印刷・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・アメリカでは二昼夜汽車で走っても左右には麦畑のほか何もない所があるという話である。ドイツでは行っても行っても洪積期の砂地のゆるやかな波の上にばらまいた赤瓦の小集落と、キーファー松や白樺の森といったような景色が多い。日本の景観の多様性はたとえ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反ッて西宮へ倒・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 次の年の寒い時分、大阪に『戦旗』の講演会があって徳永直、武田麟太郎、黒島伝治、窪川稲子その他の人々が東京駅から夜汽車で立った。私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日保釈で出たばかりの小林多喜二・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
出典:青空文庫