・・・ 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知らず/\素直におど/\した返事をした。「そのまゝこっちへ来い。」 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭して御願い申せば、直ちに其の日から生徒になれた訳で、例の世話焼をして呉れる先輩が宿所姓名を登門簿へ記入する、それで入学は済んだ訳なのです。銘々勝手な事を読んで行・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了するつもりに料簡をつけたのであろう。或人は某地にその人が日に焦けきったただの農夫となっているのを見たということであった。大噐不成なのか、大噐既成なのか、そんな事は先生の問題ではなくなったのであろう。・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・その頼信紙は引き裂いて、もう一枚、頼信紙をもらい受けて、こんどは少し考えて、まず私の居所姓名をはっきり告げて、それからダイサンショウミツケタとだけ記して発信する事にした。スグコイと言わなくても、先生は足を宙にして飛んでくる筈だと考えた。果し・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、全校の生徒の姓名とそれぞれの出身中学校とを悉くそらんじているという評判を聞いて、これは天才でなかろうかと注目していたのだが、それにしては講義がだらしなかった。あとで知ったこと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・寒そうに細い肩をすぼませて教室へはいって来たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であった。彼はたいぎそうにのろのろと立ちあがった。頬がまっかだった。ブルウル氏は、彼の顔を見ずに言っ・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ あれは、八月の末であったか、アッツ玉砕の二千有余柱の神々のお名前が新聞に出ていて、私は、その列記せられてあるお名前を順々に、ひどくていねいに見て行って、やがて三田循司という姓名を見つけた。決して、三田君の名前を捜していたわけではなかっ・・・ 太宰治 「散華」
・・・尤も大井愛といったような姓名だと Oo I Ai で少し短かすぎ、また Ty So Ga Be Ta R Za E Mon では少しごたごたし過ぎるかもしれない。但し、漢字でかくのと大した変りはない。それにしても日本の学者の論文が外国に紹介・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・ 警官は電車を待たさないために車掌の姓名を自署さしてすぐに帰した。それから私に「貴方御いそぎですか」と聞いた。私はこの警官に対して何となくいい感じを懐くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。 ここで自白しなければなら・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ある研究所の廊下に所員の姓名を記した木の札が掛け並べてある。片側は墨で片側は朱で書いてあるのを、出勤したときは黒字の方を出し、帰るときは裏返して朱字の方を出しておくのである。粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れ・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
出典:青空文庫