・・・ 常子はこの馬の脚に名状の出来ぬ嫌悪を感じた。しかし今を逸したが最後、二度と夫に会われぬことを感じた。夫はやはり悲しそうに彼女の顔を眺めている。常子はもう一度夫の胸へ彼女の体を投げかけようとした。が、嫌悪はもう一度彼女の勇気を圧倒した。・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪の情が浮んで来た。「またか。」 陳は太い眉を顰めながら、忌々しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、靴の踵を机の縁へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・それは嫌悪を感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事実だった。菰の下からは遠目にも両足の靴だけ見えるらしかった。「死骸はあの人たちが持って行ったんです。」 こちら側のシグナルの柱の下には鉄道工夫が二三人、小さい焚火を囲んでいた。黄・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・なんともいえない嫌悪の情が彼を焦ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中の広い空間に突っ立って思い存分の呼吸がしたくてたまらなくなった。壁訴訟じみたことをあばいてかかって聞き取らねばならないほど農場というものの経営は入り組ん・・・ 有島武郎 「親子」
・・・いかんとなればあまたの人の嫌悪に堪えざる乞食僧の、黒壁に出没するは、蝦蟇とお通のあるためなりと納涼台にて語り合えるを美人はふと聞噛りしことあればなり、思うてここに到る毎に、お通は執心の恐しさに、「母上、母上」と亡母を念じて、己が身辺に絡纏り・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ お光は喩えようのない嫌悪の目色して、「言わなくたって分ってらね」「へへ、そうですかしら。私ゃまたどうかと思いまして」 お光は横を向いて対手にならぬ。 為さんはその顔を覗くようにして、「お上さん、親方は何だそうですね、お上さ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。自虐めいたいやな気持で楽天地から出てきたとたん、思いがけなくぱったり紀代子に出くわしてしまった。変な好奇心からミイラなどを見てきたのを見抜かれたとみるみる赧くなった・・・ 織田作之助 「雨」
・・・の音のひっぱり方一つで、彼女たちが客に持っている好感の程度もしくは嫌悪の程度のニュアンスが出せるのと同様である。 しかし、それとも考えようによっては、京都弁そのものが結局豊富でない証拠で、彼女たちはただ教えられた数少い言葉を紋切型のよう・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ところが間もなく彼はだんだん堪らない嫌悪を感じ出した。それは彼が安易を見出していると同じ原因が彼に反逆するのであった。彼が彼女の膚に触れているとき、そこにはなんの感動もなく、いつもある白じらしい気持が消えなかった。生理的な終結はあっても、空・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・……しかしどこかからきこえて来た軽はずみな口笛がいまのソナタに何回も繰り返されるモティイフを吹いているのをきいたとき、私の心が鋭い嫌悪にかわるのを、私は見た。 休憩の時間を残しながら席に帰った私は、すいた会場のなかに残っている女の人の顔・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
出典:青空文庫