・・・ 紅葉も江戸ッ子作者の流れを汲んだが、紅葉は平民の子であっても山の手の士族町に育って大学の空気を吸った。緑雨は士族の家に生れたが、下町に育って江戸の気分にヨリ多く浸っていた。緑雨の最後の死亡自家広告は三馬や一九やその他の江戸作者の死生を・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、かなりな建物の西洋料理屋だ。私たちがそこの角を曲ると、二階からパッとマグネシュウムの燃える音がした。「今泣いた子が笑った……」私はこうして会費も持たずに引張られてきた自分を極まり悪く思い・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。次にふわりとした暖かい空気が冷え切った顔にここちよく触れました。これはさかんにストーブがたいてあるからです。次に婦人席が目につきました。毛は肩にたれて、まっ白な花をさした少女やそのほ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城前の広地や、芝、日比谷、上野の大公園なぞを目がけてひなんしたのです。平生はふつうの人のはいれない、離宮や御えんや、宮内省の一部な・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・そうして生きながら焼かれる人々の叫喚の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現わしつつある間に、山の手では烏瓜の花が薄暮の垣根に咲き揃っていつもの蛾の群はいつものように忙わしく蜜をせせっているのであった。 地震があれば壊れるような家を・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・そうして生きながら焼かれる人々の叫喚の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現わしつつある間に、山の手ではからすうりの花が薄暮の垣根に咲きそろっていつもの蛾の群れはいつものようにせわしく蜜をせせっているのであった。 地震があればこわれ・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・たとえば三毛が昔かたぎの若い母親で、玉が田舎出の書生だとすれば、ちびには都会の山の手の坊ちゃんのようなところがあった。どこか才はじけたような、しかしそれがためのいやみのない愛くるしさがあった。 小さな背を立てて、長いしっぽをへの字に曲げ・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ 山の手の、地盤の固いこのへんの平家でこれくらいだから、神田へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというような事を話しながら寝てしまった。 翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦が落ちた家もあったくらいで・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
ある晩私は桂三郎といっしょに、その海岸の山の手の方を少し散歩してみた。 そこは大阪と神戸とのあいだにある美しい海岸の別荘地で、白砂青松といった明るい新開の別荘地であった。私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それらはいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手の町で聞き馴れ、そしていつか年と共に忘れ果てた懐しい巷の声である。 夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商い舗では砂ほこりを防ぐために、長い柄杓で溝の水を汲んで撒いていることがあるが・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫