・・・浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・蜀山人が作にも金竜山下起二金波一 〔金竜山下に金波を起こし砕二作千金一散二墨河一 千金を砕作して墨河に散る別有三幽荘引二剰水一 別に幽荘の剰水を引ける有りて蒹葭深処月明多 蒹葭深き処月明らかなること多れり〕・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・いっそ山下から返れといおうと思うたがそれもと思うて躊躇して居ると車は山を上ってしもうた。もう提灯も何も見えぬ。もう仕方がないとあきらめると、つめたい風が森の中から出て電気燈の光にまじって来るので、首巻を鼻までかけて見たが直に落ちてしまう、寒・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・泉山蔵相のくだのなかで「新給与問題よりも山下春江女史の方がすきだということの方が問題だ」といったということが新聞にでていますが、これはなまよい本性にたがわず、本音でしょう。もちろんあとから本人にきけば「何もおぼえていない」でしょうが極東裁判・・・ 宮本百合子 「泉山問題について」
・・・ 市電では、一月に広尾の罷業を東交の篠田、山下等に売られてから全線納まらず「非常時」政策に抗して動揺しているのであった。 果して、昼ごろ髪をきっちり分けた車掌服の若い男が二人入って来た。一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ なほ子は、灯のつき始めた山下辺、池の端の景色などを曇ったタクシーの窓から、それでも都会らしく感じて眺めた。 植木屋が入ったと見え、駒込の家の玄関傍に、始めて見る下草の植込みが拵えてあった。薄すり紫がかった桃色の細かい花が、繊い葉の・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・その雁金の存在と醤油製造、乾物製造についての発明の過程や、久内の父である山下博士の雁金に対する学閥を利用しての資本主義的悪策など、それらがわたしたちの現実の見かたから批判すれば、リアリティーをもって描かれていないと批評したところで、作者横光・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ 三日の夕方、東交代表河野争議部長が、下唇を突出し気味に背中を堅くして椅子にかけている山下局長に向って整理案撤回要求書を差し出しているところを撮った写真が出た。でっぷり太った角がりでチョビ髭を生やした河野が詰襟服姿で起立し、要求書の両端・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・どういう道順であったか、上野の山下へ出た。そこで自働電話を父へかけた。何時までならいると父が云ったので、私は、黒リボンを帯留めにくくりつけるひまのなかった例の時計を電話機の前の棚のところへ出してのせ、それを眺めながら、だって父様すこし無理よ・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・立ったまま、「きょうお姉様に上野の広小路と山下の間で会った」とハアハア笑った。「いやよ、何云ってるのさ」「だって、バスにのっているすぐとなりの男のひとが、ほらあれって云ってるんだもの」「見たの?」「ううん、こんでいて・・・ 宮本百合子 「似たひと」
出典:青空文庫