・・・ ちょうど、悪寒に襲われた患者のように、常磐木は、その黒い姿を暗の中で、しきりに身震いしていました。 A院長は、居間で、これから一杯やろうと思っていたのです。そこへはばかるような小さい跫音がして、取り次ぎの女中兼看護婦が入ってきて、・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・見あげると、その崖のうえには、やしろでもあるのか、私の背丈くらいの小さい鳥居が立っていて、常磐木が、こんもりと繁り、その奥ゆかしさが私をまねいて、私は、すすきや野いばらを掻きわけ、崖のうえにゆける路を捜したけれども、なかなか、それらしきもの・・・ 太宰治 「狂言の神」
樹々の若葉の美しいのが殊に嬉しい。一番早く芽を出し始めるのは梅、桜、杏などであるが、常磐木が芽を出すさまも何となく心を惹く。 古葉が凋落して、新しい葉がすぐ其後から出るということは何となく侘しいような気がするものである。椿、珊・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・霜枯れ時だのに、美しい常磐木の緑と、青玉のような水の色とが古びた家の黄や赤や茶によくうつります。 ゴンドラもおもしろく、貧しい女も美しく見えます。 ローマから ローマへ来て累々たる廃墟の間を彷徨しています。き・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・メリカの曠野に立つ樫フランスの街道に並ぶ白楊樹地中海の岸辺に見られる橄欖の樹が、それぞれの姿によってそれぞれの国土に特種の風景美を与えているように、これは世界の人が広重の名所絵においてのみ見知っている常磐木の松である。 自分は三門前と呼・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ 邸宅の後ろは常磐木の密林へ塀一つで、庭の続きになっていた。前は、秋になると、大倉庫五棟に入り切れないほどの、小作米になる青田に向っていた。 邸後の森からは、小川が一度邸内の泉水を潜って、前の田へと灑がれていた。 消防組の赤い半・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・灌木地帯で、常磐木は見えない。山がある。民家はシベリアとは違い薄い板屋根だ。どの家も、まわりに牧柵をゆって、牛、馬、豚、山羊などを飼っている。家も低い、牧柵もひくい。そして雪がある。 川岸を埋めた雪に、兎か何か獣の小さい足跡がズーとつい・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
午後から日がさし、積った白雪と、常磐木、鮮やかな南天の紅い実が美くしく見える。 机に向っていると、隣の部屋から、チクチク、チチと小鳥の囀りが聞えて来る。二三日雪空が続き、真南をねじれて建った家には、余り充分日光が射さな・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・ ○自分とT先生との心持 ◎敏感すぎる夫と妻 ◎まつのケット ◎本野子爵夫人の父上にくれた陶器、 ◎常磐木ばかりの庭はつまらない。 ――○―― Aの言葉の力 ◎或こと・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・ ○枯木雪につつまれた山肌 茶と色との配色 然し女性的な結晶のこまかさというようなものあり ○山と盆地 ○下日部辺の一種複雑な面白い地形 然し小さし ○信州に入ると常磐木が多い。山迚も大きい感。常磐木があるので黒と白の配色。・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
出典:青空文庫