・・・そこで彼等はまず神田の裏町に仮の宿を定めてから甚太夫は怪しい謡を唱って合力を請う浪人になり、求馬は小間物の箱を背負って町家を廻る商人に化け、喜三郎は旗本能勢惣右衛門へ年期切りの草履取りにはいった。 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさま・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・無器用な彼は林檎一つむけず、そんな妓の姿に涙が出るほど感心し、またいじらしくもあり、年期明けたら夫婦になろうと簡単に約束した。 こんなことではいつになったら母親を迎えに行けるだろうかと、情けない想いをしながら相変らず通っていたが、妓は相・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 志賀直哉氏の文学のよさは相当文学に年期を入れたものでなくては判らぬのである。文学を勉強しようと思っている青年が先輩から、まず志賀直哉を読めと忠告されて読んでみても、どうにも面白くなくて、正直にその旨言うと、あれが判らぬようでは困るな、・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・そしてまた二つ井戸の岩おこし屋の二階にも鉄の格子があって、そこで年期奉公の丁稚が前こごみになってしょんぼり着物をぬいでいたのである。そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営み・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・弟の信一は京都下鴨の質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。 こればっかりは運よく、すぐ買手・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 二年、三年、田舎の生活に年期を入れてくるに従って、東京から送られる郵便物や、雑誌の数がすくなくなって、その郵便物の減りかげんは、田舎への埋れようの程度を示す。自分がここにいるということを人に知られずに、垣間から舞台をのぞき見するのはこ・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・骨董商はちょっと取片付けて澄ましているものだが、それだって何も慈善事業で店を開いている訳ではない、その道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過しているのだから、三十円のものは口銭や経費に二十円遣って五十円で買うつもりでいれば何の間違はな・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・が西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏を免かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥るのであります。百年の経験を十年で上滑りもせずやり・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」「君は第一平生から惰弱でいけない。ちっとも意志がない」「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩に逢った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」「ハハハハつまらん事を云・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・先方は立派な奥様で、当方は年期の明けた模範下女よろしくと云う有様だから、挨拶をするのも、ちょっと面はゆげに見えたんでしょうが、思い切って、おやまあ御珍らしい事とか何とか話かけて見ると案のごとく、先方では、もうとくの昔に忘れています。下女に近・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫