・・・今日になってこれを憶えば、そのいずれにも懐しい記憶が残っている。わたくしはそのいずれを思返しても決して慚愧と悔恨とを感ずるようなことはない。さびしいのも好かったし、賑なのもまたわるくはなかった。涙の夜も忘れがたく、笑の日もまた忘れがたいので・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・その匂は、坑夫たちには懐しいものであった。その煙は吹雪よりも迅くて、濃かった。 各々が受持った五本又は七本の、導火線に点火し終ると、駈足で登山でもするように、二方の捲上の線路に添うて、駆け上った。 必要な掘鑿は、長四方形に川岸に沿う・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・何となく面白くない。と云った所で、捨てる訳にはゆかん。何となく懐しい所もある。理論から云っても、人生は生活の価値あるものやら、無いものやら解らん。感情上から云っても同じく解らん……つまる所、こんな煮え切らぬ感情があるから、苦しい境涯に居たの・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・その聯想があるので、この花は昔床しい感じがして予を喜ばしめた。その後碧梧桐が郊外から背の低い菜種の花を引き抜いて来て、その外にいろいろの花なども摘みそえて来た事があった。それでその菜の花を鉢植にして、下草にげんげんを植えて、それも写生して見・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である日本を見離しがたく思っている。 その心持を誠意のこもった現実の力として表現しようとするとき私たちは、一つの救国運動として故国に対する人民の愛と必要に立つ統・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・古い桜樹と幾年か手を入れられたことなく茂りに繁った下生えの灌木、雑草が、かたばかりの枸橘の生垣から見渡せた懐しいコローの絵のような松平家の廃園は、丸善のインク工場の壜置場に、裏手の一区画を貸与したことから、一九二三年九月一日の関東大震災後、・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・此処からは、何処にも私の懐しい自然全景を見出すことは出来ない。視覚の束縛のみではない。心がつき当る。東を向いても、西を向いても。豊かに律を感じて拡がろうとする魂が、彼方此方で遮られて、哀れな戸惑いをする。ああ、野原、野原。私の慾しいものは、・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・丘をはさんで点綴するくさぶき屋の低い軒端から、森かげや小川の岸に小さく長閑に立っている百姓小舎のくすぶった破風から晴れた星空に立ちのぼってゆく蚊やりの煙はいかにも遠い昔の大和民族の生活を偲ばせるようで床しいものです。此の夏は福島のふるさとに・・・ 宮本百合子 「蚊遣り」
・・・此の夏は福島のふるさとに帰って祖母達と久しぶりで此の俳味に富んだ何とも云われぬ古風な懐しい情景に親しむことができました。夕方お星様がチラチラまたたく頃になると何の家でも生のままの杉の葉をいぶしてその紫の煙で蚊を追いやるのです。そして人々は煙・・・ 宮本百合子 「蚊遣り」
・・・どこを今までうろつき廻って来たものやら、と、梶は応接室である懐しい明るさに満たされた気持で、青年と対いあった。高田は梶に栖方の名を云って初対面の紹介をした。 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街街の一隅を馳け廻っている、いく・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫