・・・「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪ばかり引いて、嚔ばかり致しております」 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。 マルは尻尾を振りながら、主人の側へ来た。大塚さ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。然し当節のように・・・ 太宰治 「三月三十日」
・・・「決して御客様方の人格を疑うような訳ではありませんが、これも職務で御座いますからどうか悪しからず御勘弁を願います」と云う。こう云われてみると私はますます弱ってしまうのであった。私は恐縮して監督と警官に丁寧に挨拶して急いでそこを立去った。別の・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・自分はまだ一度も行った事がないが病後の事であるからと思うて座敷で書見をしている父上に行ってもよう御座いましょかと聞くと行くはよいが傘をさして行けとの事であったから、帽をかぶってわるい方の蝙蝠傘を持って裏門へまで行くと、要太郎はもう網をこしら・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・したが、私は同氏から稀に御手紙は頂戴しておりましたものの、御目にかかったのは前後にただ一度だけ、それも宴会の席上でちょっと御挨拶をしたばかりでありまして、同氏の追憶と云っては別段に申上げるほどの資格も御座いません。 ただ何か強いて申上げ・・・ 寺田寅彦 「書簡(1[#「1」はローマ数字1、1-13-21])」
・・・「先生、何の御用で御座います。」「怪しからん、庭に狐が居る、乃公が弓を引いた響に、崖の熊笹の中から驚いて飛出した。あの辺に穴があるに違いない。」 田崎と抱車夫の喜助と父との三人。崖を下りて生茂った熊笹の間を捜したが、早くも出勤の・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。「御前の方がどうかしたんだろう。先ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ」「私は何と旦那様から冷かされても構いません。――しかし・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・にもかかわらず、今日までこういう、即ち弁論部の御招待に預って、諸君の前に立った事は御座いませんでした。尤も御依頼も御座いませんでした。また遣る気もありませんでした。ただ今私を御紹介下さった速水君は知人であります。昔は御弟子で今は友達――いや・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・ 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。 私の恋人は幾樽のセメントになったでしょうか、そしてどんなに方々へ使われるのでしょうか。あなたは左官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。 私は私・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・『あなた、御寒う御座いますから、失礼ですが、其御子に掛けてあげて下さい。』 貴婦人は見事な肩掛を、赤さんへお掛けなすって、急いで出口の方へ行ってお了いでした。其御様子が何様にお美しく見上げられたでしょう。『僞善よ。ほほ。』と、ま・・・ 広津柳浪 「昇降場」
出典:青空文庫