○ 菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾の綻びるのを待っているのだ。 去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花の咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・昨日聞いた時のように、今日もまた聞きたいものと、それとなく心待ちに待ちかまえるような事さえあるようになって来たのである。 鐘は昼夜を問わず、時の来るごとに撞きだされるのは言うまでもない。しかし車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・自分はなるべく重吉といっしょに晩飯を食おうと思って、煙草を何本も吹かしながら、彼の来るのを心待ちに待っているうちに、向こうの中二階に電気燈がついて、にぎやかな人声が聞こえだした。自分はとうとう待ち切れず一人膳に向かった。給仕に出た女が、招魂・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 私を呼びに来る人を心待ちに待ちながらも行きかねた気持であった。 物凄い形に引きしまった痛ましい感情が私の胸に湧き返って座っても居られない様なさりとて足軽くあちらこちらとさ迷えもしない身をたよりなくポツントはかなく咲くはちすのうす紫・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ それでも来る日が心待ちに待たれた。 これぞと云った特長もないのに何故こんなにもう七年ほどもつき合って居るんだろうなどと云う事が妙に思われた。 一年も半年も会わないで手紙さえやりとりしなかった時はたびたびでもその次会った時には昨・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ 小学校に入れた時からもう六年になるのを心待ちにし、小学でも出たらこうと一家の生計と結びつけて、その子の身のふりかたを考え、成長を見守っている勤労者の家庭の中での大人と子供との関係と違うところがそこにある。私は、その点に今は社会的な意味・・・ 宮本百合子 「行方不明の処女作」
・・・はみにくしという世の噂むなしからず、いずれも顔立ちよからぬに、人の世の春さえはや過ぎたるが多く、なかにはおい皺みて肋一つ一つに数うべき胸を、式なればえも隠さで出だしたるなどを、額越しにうち見るほどに、心待ちせしその人は来ずして、一行はや果て・・・ 森鴎外 「文づかい」
出典:青空文庫