・・・殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎一人の敵ではなく、左近の敵でもあれば、求馬の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗めさせた彼自身の怨敵であった。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・あげた手が自ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪いて、爪を剥がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれようとした。が、もう遅い。クリストは、兵卒たちに追い立てられて、すでに五六歩彼の戸口を離れてい・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ フレンチは怒が心頭より発した。非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。「なんだってそんな事を言うのだ。そんな事を己に言って、それがなんになるものか。」肩を聳やかし、眉を高く額へ吊るし上げて、こう返事をした。「だって嫌なお役目で・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 尉官は怒気心頭を衝きて烈火のごとく、「何だ!」 とその言を再びせしめつ。お通は怯めず、臆する色なく、「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」 恐気も・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・きょうは朝から近頃に無く気持がせいせいしていて慾も得も無く、誰をも怨まず、誰をも愛さず、それこそ心頭滅却に似た恬淡の心境だったのですが、あなたに話かけているうちに、また心の端が麻のように乱れはじめて、あなたの澄んだ眼と、強い音声が、ともする・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ここではただそういう意識を心頭に置き、そうしてその上に立って蕉門俳諧そのものの本質に関する若干の管見を述べるよりほかに現在の自分の取るべき道はないのである。 俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。風雅という文・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・ 今その然る所以の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然り而して・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫