・・・なぜと云うに、あの女は一度来た客を忘れると云うことはないと云って、ひどく自分の記憶を恃んでいたからである。 それを客の方から頼んで二度話して貰ったものは、恐らくは僕一人であろう。それは好く聞いて覚えて置いて、いつか書こうと思ったからであ・・・ 森鴎外 「心中」
次の日曜には甲斐へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっていると梶は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばらくの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己の注意を惹いたのだか、己の部屋に這入っていた時間が余り短かったので、なんとも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見て・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・と、心を一杯籠めて仰ったのを、訳はよく分らないでも、忘れる処か、今そこでうかがったようにおぼえているんです。 いつかはまた、ちょっとした子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの中は頻りに寐反りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・この晩の印象はどうしても忘れる事ができないほど強烈である、三人とも夢中になって、熱病やみのように打ち震えた。カインツは馳け回って大声に歓呼しながら帽子を振り、ロッテはもう役者を廃めるといって苦しげに泣いた。劇場を出た時には三人とも歓びのあま・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫