・・・後で聞いてみると「旦那さまのために三日月様に祈っておかぬと運が悪い」と申します。私は感謝していつでも六厘差し出します。それから七夕様がきますといつでも私のために七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます。私はいつもそれを喜んで供えさせます。その・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 私は多くの不良少年の事実に就いては知らないが、自分の家に来た下女、又は知っている人間の例に就いて考えて見れば、母親の所謂しっかりした家の子供は恐れというものを感ずる、悪いという事を知る。しかし、母親が放縦であり、無自覚である家の子供は・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・お前さえ還る気になりゃ、あの人あいつ何時でもひき取ってくれらあ、それだけは俺が受合う。悪いことは言わねえから、そうしねえ、よ。」「知らない! こんな恥しい目に遭って、私ゃ人にも顔向けできない、死んでやる!」と言って、女房は泣伏してしまっ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・さっきお湯で見たとき、すぐ胸がお悪いねんやなあと思いましたわ」 そんなに仔細に観察されていたのかと、私は腋の下が冷たくなった。 女は暫らく私を見凝めるともなく、想いにふけるともなく捕えがたい視線をじっと釘づけにしていたが、やがていき・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・好感興悪感興――これはおかしな言葉に違いないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければならぬ。そうにでもしなければこの人生という処は実に堪え難い処だ! 併し食わなければならぬという・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・二十日ばかり心臓を冷やしている間、仕方が無い程気分の悪い日と、また少し気分のよい日もあって、それが次第に楽になり、もう冷やす必要も無いと言うまでになりました。そして、時には手紙の三四通も書く事があり、又肩の凝らぬ読物もして居りました。 ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・俺はまるで悪い暗示にかかってしまったように白じらとなってしまう。崖の上の陶酔のたとえ十分の一でも、何故彼女に対するとき帰って来ないのか。俺は俺のそうしたものを窓のなかへ吸いとられているのではなかろうか。そういう形式でしか性欲に耽ることができ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げが済むとかの酒癖の悪い水兵が、オイ水野、貴様は一つ隠したぞと言って、サア出せと叫んだ。こいつけしからんと他の水兵みな起ち上がって、サア出せいやなら十杯飲めと迫る。自分は笑いながらこれを見・・・ 国木田独歩 「遺言」
一 倫理的な問いの先行 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 眼鏡を掛けた、眼つきの悪い局長が、奥の部屋から出て来た。局長は疑ぐるように、うわ眼を使って、小使をじろりと見た。「誰れが出した札だって?」 局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。 小使は、局長の光っている・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫