・・・しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、間もなく彼女の心の上へ、昏々と下って来るのだった。 二「どうしたんですよ? その傷は。」 ある静かな雨降りの夜、お蓮は牧野の酌をしながら、彼の右の頬・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そこで己は、まるで悪夢に襲われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧めたのであろう。それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後は人間の知らない力が、(天魔波旬とでも云うが好己の意志を誘って、邪道へ陥れたとで・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ その晩もまた新蔵は悪夢ばかり見続けて、碌々眠る事さえ出来ませんでしたが、それでも夜が明けると、幾分か心に張りが出ましたので、砂を噛むより味のない朝飯をすませると、早速泰さんへ電話をかけました。「莫迦に、早いじゃないか。僕のような朝寝坊・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・この時人が精力を搾って忘れようと勉めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。六 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・は私の醒めがたい悪夢から這いださしてくださいました――私がここから釈放された時何物か意義ある筆の力をもって私ども罪に泣く同胞のために少しでも捧げたいと思っております――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々―― 終日床・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 肉色に透き通るような柔らかい絹の靴下やエナメルを塗った高い女の靴の踵は、ブルジョア時代の客間と、頽廃的なダンスと、寝醒めの悪い悪夢を呼び戻す。花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・酒なるものを飲み、その変転のはげしさを思い、呆然として、わが身の下落の取りかえしのつかぬところまで来ている事をいまさらの如く思い知らされ、また同時に、身辺の世相風習の見事なほどの変貌が、何やら恐ろしい悪夢か、怪談の如く感ぜられ、しんに身の毛・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子の蝋燭の火を中心にして集まり、久し・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗に私からミリタリズムの幻影を剥ぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、しかしその小さい音は、私の脳髄の金的を・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされる人が多いらしい。このいわゆる数学的低能者につい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫