・・・ 京一は、何か悲しいものがこみ上げてきて言葉尻がはっきり云えなかった。「醤油屋へ行かずにどうするんどい? 遊びよったら食えんのじゃぞ!」 京一は、ついに、まかないの棒のことを云い出して、涙声になってしまった。むつかしい顔をして聞・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・アア、二箇揃っていたものをいかに過失とは云いながら一箇にしてしまったが、ああ情無いことをしたものだ、もしやこれが前表となって二人が離ればなれになるような悲しい目を見るのではあるまいかと、痛くその時は心を悩ました。しかし年は若し勢いは強い時分・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・半生の間の歓しいや哀しいが胸の中に浮んで来た。あの長い漂泊の苦痛を考えると、よく自分のようなものが斯うして今日まで生きながらえて来たと思われる位。破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山の上の港へ漂い着いて、世・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・「そこはね、みんながおたがいに友だちになって、悲しい事も争闘もしない所です」「私はそこに行きたいなあ」 と子どもが言いました。「私もですよ」 と憂さ辛さに浮き世をはかなんださびしいおかあさんも言いました。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・然と立ちあがりましたが、そのとき、卓上から床にころげ落ちて在った一箇の蜜柑をぐしゃと踏みつぶして、おどろきの余り、ひッという貧乏くさい悲鳴を挙げたので、満座抱腹絶倒して、博士のせっかくの正義の怒りも、悲しい結果になりました。けれども、博士は・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えたところに来た。忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・実際何も悲しい事はなかった。しかしまたすべてのものが悲しかったのも事実である。それは自分が悲しいのでなくてむしろ周囲の世界の悲しみが自分のからだに滲み込んで来るように思われるのであった。 これが郷愁というものだとはその時には気が付かなか・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ 私は初冬の庭をば、悲しいとも、淋しいとも思わなかった。少くとも秋の薄曇りの日よりも恐しいとは思わなかった。散り敷く落葉を踏み砕き、踏み響かせて馳せ廻るのが、却て愉快であった。然し、植木屋の安が、例年の通り、家の定紋を染出した印半纒をき・・・ 永井荷風 「狐」
・・・蜀黍の垣根に括った竹の端を伐って釘を造ってそうして毛皮を其板へ貼りつけた。悲しい一日が太十の番小屋に暮れた。其夜彼は眠れなかった。妄念が止まず湧いて彼を悩ました。うとうとして居ると赤が吠えながら駈け出したように思われてはっと眼が醒めたり、鍋・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫