・・・と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったこと・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ ――――――――――――――――――――――――― 修理のこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島林右衛門である。 林右衛門は、家老と云っても、実は・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ といったが克明な色面に顕れ、「おお、そして何よ、憂慮をさっしゃるな、どうもしねえ、何ともねえ、俺あ頸子にも手を触りやしねえ、胸を見な、不動様のお守札が乗っけてあら、そらの、ほうら、」 菊枝は嬉しそうに血の気のない顔に淋しい笑を・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をな・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・「憂慮をさっしゃるな。割いて爺の口に啖おうではない。――これは稲荷殿へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」 と寄せた杖が肩を抽いて、背を円く流を覗いた。「この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・「はい、屋根も憂慮われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風のこう烈しい事は、十年以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・階へ呼びなどしたことのある様子も、この寂寞の境に堪え得て一人で秋冬を送るのも、全体を通じて思い合さるる事ばかりであるが、可し、それもこれも判事がお米に対する心の秘密とともに胸に秘めて何事も謂わず、ただ憂慮わしいのは女の身の上、聞きたいのは婆・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」「あれ、止して頂戴、止してよ。」 と・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「いや、お憂慮には及びません。」 といと淋しげに微笑みぬ。 三「奥様、どこへござらっしゃる。」 と不意に背後より呼留められ、人は知らずと忍び出でて、今しもようやく戸口に到れる、お通はハッと吐胸をつきぬ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・その後難の憂慮のないように、治兵衛の気を萎し、心を鎮めさせるのに何よりである。 私は直ぐに立って、山中へ行く。 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫