・・・喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間と落ち合った。それが恩地小左衛門の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子と話している言葉にも自ら明・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・しかし兎に角一部を成している。 或自警団員の言葉 さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放っている。微風もそろそろ通い出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・回避し、早く既に、あたかも夫に忠実なる妻、妻に忠実なる夫を笑い、神経の過敏でないところの人を笑うと同じ態度を以て、国家というものに就いて真面目に考えている人を笑うような傾向が、或る種類の青年の間に風を成しているような事はないか。少くとも、そ・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外に何らの答を為し得ない。 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶起して乳搾りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・殊に欧風の晩食を重ずることは深き意味を有するらしい、日中は男女老幼各其為すべき事を為し、一日の終結として用意ある晩食が行われる、それぞれ身分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・然るに先方は既に一家を成した大家であるに、ワザワザ遠方を夜更けてから、挨拶に来られたというは礼を尽した仕方で、誠に痛み入って窃に赤面した。 早速社へ宛てて、今送った原稿の掲載中止を葉書で書き送ってその晩は寝ると、翌る朝の九時頃には鴎外か・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれて居るからである。これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・若し、その人を忘れずに、記念せんとならばその人が、生前に為しつゝあった思想や、業に対して、惜しみ、愛護し、伝うべきであると。 まことに、詩人たり、思想家たる人の言葉にふさわしい。 誰か、人生行路の輩でなかろうか。まさにその墓は、一寸・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・端の歩を突くのは手のない時か、序盤の駒組が一応完成しかけた時か、相手の手をうかがう時である。そしてそれも余程慎重に突かぬと、相手に手抜きをされる惧れがある。だから、第一手に端の歩を突くのは、まるで滅茶苦茶で、乱暴といおうか、気が狂ったといお・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫