・・・ 吉里はにやにや笑ッていて、それで笑いきれないようで、目を坐えて、体をふらふらさせて、口から涎を垂らしそうにして、手の甲でたびたび口を拭いている。「此糸さん、早くおくれッたらよ、盃の一つや半分、私しにくれたッて、何でもありゃアしなか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・死にかかった人がする様な目つきをして手をのぞき込んだ、きずはついて居ない、ただ青い手の甲に咲いた様にルビーを置いた様にコロッとした血がほんの一っ(ぴりたまって居るのを見つけた。 男はそれを見て急に痛のました様にチューチューとそこを吸って・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・骨だった肩にちっとも似合わない白っぽいお召を着て、しみじみ自分の手の甲をさすりながら、「正直なところ、ああいうところへ入れられると赤くならずにいられやしませんね。やり方がひどいからね、人間扱いじゃないもの。……」 女監守は自分のもの・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・眼尻に流れた涙を手の甲でふいて、右脇を下に臥て、コップの中に胆汁の滴るのを待つ。 医者は去年大学を出た青年だ。彼のところには一匹のセッター種の犬と妻とがある。フランス藍色の彼の服は襟がすり切れた。アフガニスタンからアマヌラハンが逃げ・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ 顔を手の甲でこすりながら不精らしく身動きをして、女中の名を呼んだ。 まあ御目覚めなさいましたねえ。と大きな声で云って女中が入って来た頃千世子は髪を解いて梳って居た。「お客様がおすみになるとすぐおよったんでござい・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・と云いながら上げた泣き声はすっかり合おう合おうとして居た瞼を見開かせて彼女は五つ六つの子の様に手の甲で目をこすりこすりベルを鳴らして女中を呼びました。「おやおっきでございますか寿江子様。 女は愛素よく子供の足元にある乳を暖め・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・笑う時にはいつもいつも頭を左の肩の上にのせて、手の甲で口を押える様にして、ハッハッハッと絶れぎれに息を引き込む様に笑った。その様子が体につり合わないので、笑う様子を見て居る者がつい笑わされるのである。「まあ、貴方、郡山さ芝居が掛りま・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・さて下りたかと思うと、その手が直ぐに又上がって、手の甲が上になって、鼻の下を右から左へ横に通り掛かって、途中で留まって、口を掩うような恰好になる。手をこう云う位置に置いて、いつでも何かしゃべり続けるのである。尤も乳房を押えるような運動は、折・・・ 森鴎外 「心中」
・・・私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はもう二三艘になっていた。 私は思った。漁師の群れに貴い集中と純一とを認めたのは私の心に過ぎなかったではないか。彼らが浜から家へ帰る。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫