・・・老憊の一生活人へ、まこと敬虔の心でお礼を申し述べ、教えられたとおりの路をあやまたずに三曲りして、四曲りした角に、なんなく深田久弥のつつましき門札を見つけた。かねて思いはかっていたよりも十倍くらいきちんとしたお宅だったので、これは、これは、と・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。 この曲の終りに近づいた頃に、誰か裏木戸の方からはいって来て縁側に近よる気はいがした。振り向いてみると花壇の・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・歴史及び伝説中の偉大なる人物に対する敬虔の心を転じて之を匹夫匹婦が陋巷の生活に傾注することを好んだ。印象派の画家が好んで描いた題材を採って之を文章となす事を畢生の事業と信じた。後に僕は其主張のあまりに偏狭なることを悟ったのであるが、然し少壮・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大なる美術的傑作品である。紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里の有名なる建築物・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・譬えば母とか恋人とかいうようないなくなってから年を経たものがまた帰って来たように、己の心の中に暖いような敬虔なような考が浮んで、己を少年の海に投げ入れる。子供の時、春の日和に立っていて体が浮いて空中を飛ぶようで、際限しも無いあくがれが胸に充・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・「前論士は仏教徒として菜食主義を否定し肉食論を唱えたのでありますが遺憾乍ら私は又敬虔なる釈尊の弟子として前論士の所説の誤謬を指摘せざるを得ないのであります。先ず予め茲で述べなければならないことは前論士は要するに仏教特に腐敗せる日本教権に・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・今となって見ればその為に却って彼女も全力をつくし生きたことが理解され、愛されるのが必要なのはもう自分ではない母の番だということをなほ子は敬虔な心持で感じるのであった。然し、子供の時から常に与えてであった母、より強きものであった母を、或る時、・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・という、敬虔なフランクネスは御解り下さいますでしょう。「助教授Bの幸福」の中には、貴女が一個の芸術家として自己を御認めになりながら、一方では、人間的興味、感動による観察、表現よりも、もっと心理的に直接な、本能的潔癖に触れた、というような・・・ 宮本百合子 「野上彌生子様へ」
・・・けれども、英国人たる者が生得権として敬虔、真実な徳義を持つと云う信条は決して否定しない。自分等は選ばれたる者で、特別な精神高揚の努力なしで、仁慈に達せられると思って居る。自分の金を出して一つの教会を建てる騒々しい成上りものは、そう云うことで・・・ 宮本百合子 「無題(四)」
・・・昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫