・・・宿には一時雨さっとかかった。 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便らないで、洋傘で寂しく凌いで、鴨居の暗い檐づたいに、石ころ路を辿りながら、度胸は据えたぞ。――持って来い、蕎麦二膳。で、昨夜の饂飩は暗討ちだ――今宵の蕎麦は望むところだ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・絵を、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き溜めた大摺鉢へ、鞠子の宿じゃないけれど、薯蕷汁となって溶込むように……学校の帰途にはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も霙も知っている。夏は学校が休です。・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない。 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分が・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 空は、時雨のきそうな模様でした。今朝がたから、街の中をさまよっていたのです。たまたまこの家の前にきて、思わず足を止めてしばらく聞きとれたのでした。 そのうちに、街には、燈火がつきました。家のうちのピアノの音はやんで、唄の声もしなく・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・そして睡眠は時雨空の薄日のように、その上を時どきやって来ては消えてゆくほとんど自分とは没交渉なものだった。吉田はいくら一日の看護に疲れても寝るときが来ればいつでもすやすやと寝ていく母親がいかにも楽しそうにもまた薄情にも見え、しかし結局これが・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・そして初冬の時雨はもう霰となって軒をはしった。 霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。トタン屋根を撲つ音。やつでの葉を弾く音。枯草に消える音。やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。と、白い冬の面紗を破・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次近づいて来た、その露払が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森とした林の上をパラパラと時雨て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価と・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳ゆ。風清く気澄めり。 げに初冬の朝なるかな。 田・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・路の半ばに時雨しめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りし後は左右の林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直なる路の急に左に折るるところに立ち木やや疎らなる林あり。青年はかねてよくこの林の奥深く分け入・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ さあ出て釣り始めると、時雨が来ましたが、前の時と違って釣れるわ、釣れるわ、むやみに調子の好い釣になりました。とうとうあまり釣れるために晩くなって終いまして、昨日と同じような暮方になりました。それで、もう釣もお終いにしようなあというので・・・ 幸田露伴 「幻談」
出典:青空文庫