・・・ 何かよい事でも期待するように、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周囲には三人の笑い声が起こった。「だれだい、負けた人は。」「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」「さあ、負けた人は、郵便箱・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・歩いていても、何ひとつ、これという目的は無いのでございますが、けれども、みなさん、その日常が侘びしいから、何やら、ひそかな期待を抱懐していらして、そうして、すまして夜の新宿を歩いてみるのでございます。いくら、新宿の街を行きつ戻りつ歩いてみて・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そうしてもラテン文法の練習などではめったに出逢わないような印象と理解を期待する事が出来るだろう。」「ついでながら近頃やっと試験的に学校で行われ出した教授の手段で、もっと拡張を奨励したいのがある。それは教育用の活動フィルムである。活動写真・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って、どこでも期待したほどの興趣の得られなかったのに、気持を悪くしていた。古い都の京では、・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・彼女のある期待が、歌などよくわからない三吉にその雑誌をひろげてみねば悪いようにさせた。そして雑誌をめくりながら、彼女の歌がどれであるかなど、心にとめることも出来ず、相手にひったくられるまで、ボンヤリとそこらに眼をおいていた。「――サンポ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかしながら期待の実行は偶然の機会を待つより外はない。 八幡の町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚からは明るく日がさすようになった。玉蜀黍の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手から遁げられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁だと思っていた。 可哀想に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・けれども、この次の作品に期待される発展のために希望するところが全くない訳ではない。 溝口健二は、「愛怨峡」において非常に生活的な雰囲気に重点をおいている。従って、部分部分の雰囲気は画面に濃く、且つ豊富なのであるが、この作の総体を一貫して・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・どの顔を見ても、物を期待しているとか、好奇心を持っているとか云うような、緊張した表情をしているものはない。 丁度僕が這入った時、入口に近い所にいる、髯の長い、紗の道行触を着た中爺いさんが、「ひどい蚊ですなあ」と云うと、隣の若い男が、「な・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・氏がこの道の上をさらに遠く高く進んで行かれる事は、我々の楽しい期待の一つである。 真道黎明氏の『春日山』は川端氏の画と同じく写実の試みであって、さらに多くの感情を現わし得たものである。柔らかい若葉の豊かな湧き上がるような感触は、――ただ・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫