・・・ 僕の母の実家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしていた。髪をお下げにした「初ちゃん」は恐らくは大きい目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめていたことであろう。「これはお前と同じ名前の樹。」 伯母の洒落・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・春のまさに闌ならんとする気を籠めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨か何ぞのような雨の灰汁に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき紅木瓜の、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 二人が塵払の音のする窓の外を通った時は、岩間に咲く木瓜のように紅い女の顔が玻璃の内から映っていた。 新緑の頃のことで、塾のアカシヤの葉は日にチラチラする。薮のように茂り重なった細い枝は見上るほど高く延びた。 高瀬と学士とは・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨を帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな釣鐘にとまりて眠る胡蝶かなやぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下小原女の五人揃ふて袷かな照射してさゝやく近江八幡かな葉うら/・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫