・・・明治の聖代の今日だって、犬塚信乃だの犬飼現八だの、八郎御曹司為朝だの朝比奈三郎だの、白縫姫だの楠こまひめだののような人は、どうも見当りません。まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女の・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ 如意輪堂の扉にあずさ弓の歌を書きのこした楠正行は、年わずかに二十二歳で戦死した。しのびの緒をたち、兜に名香を薫じた木村重成もまた、わずかに二十四歳で戦死した。彼らは各自の境遇から、天寿をたもち、もしくは病気で死ぬことすらも恥辱なりとし・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 如意輪堂の扉に梓弓の歌かき残せし楠正行は、年僅に二十二歳で戦死した、忍びの緒を断ちかぶとに名香を薫ぜし木村重成も亦た僅かに二十四歳で、戦死した、彼等各自の境遇から、天寿を保ち若くば病気で死ぬることすらも、耻辱なりとして戦死を急いだ、而・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・当日は星が岡の茶寮でも借り受け、先方の親戚二、三人と西丸さん、吉村さんとを招き、簡素な茶室で式を済ましたい考えです。楠ちゃんにも列席してもらいたいとは思いますが、遠方のことでもあり、それに万事内輪にと思いますから、おまえたち兄妹の総代として・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・羽左、阪妻の活躍は、見た眼にも綺麗で、まあ新講談と思えば、講談の奇想天外にはまた捨てがたいところもあるのだから、楽しく読めることもあるけれど、あの、深刻そうな、人間味を持たせるとかいって、楠木正成が、むやみ矢鱈に、淋しい、と言ったり、御前会・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・民家の垣根に槙を植えたのが多く、東京辺なら椎を植える処に楠かと思われる樹が見られたりした。茶畑というものも独特な「感覚」のあるものである。あの蒲鉾なりに並んだ茶の樹の丸く膨らんだ頭を手で撫でて通りたいような誘惑を感じる。 静岡へ着いて見・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ 重兵衛さんの長男楠次郎さんから自分は英語の手ほどきを教わった。これについては前に書いたことがあるから略する。楠さんは独学で法律を勉強して、後に裁判所の書記に採用された。弟妹とちがって風采もよくてハイカラでまたそれだけにおしゃれでもあっ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・そのためにその頃郷里でただ一人の東京帝国大学卒業医学士であったところの楠先生の御厄介になることになった。この先生はたいていいつも少し茶色がかった背広の洋服に金縁眼鏡で、そうしてまだ若いのに森有礼かリンカーンのような髯を生やしていたような気が・・・ 寺田寅彦 「追憶の医師達」
・・・ 宅の長屋に重兵衛さんの家族がいてその長男の楠さんというのが裁判所の書記をつとめていた。その人から英語を教わった。ウィルソンかだれかの読本を教わっていたが、楠さんはたぶん奨励の目的で将来の教案を立てて見せてくれた。パーレー万国史、クヮッ・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・ この飛び石のすぐわきに、もとは細長い楠の木が一本あった。それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
出典:青空文庫